宋代(960年~1279年)は様々なものが発展した時代で有名です。その代表的なものに〝貨幣〟があります。貨幣は唐(618年~907年)以前にも存在していたので、別に珍しくもありません。
発展したのは〝紙幣〟が誕生したことです。不思議なことに、それまで紙幣は無かったのです。ヨーロッパ・アラビア・日本にもありません。中国が最初に作り上げたのです。今回は宋代の貨幣事情を解説します。
北宋の貨幣統一策
唐が滅んだ後は乱世の五代十国時代(907年~960年)がしばらく続きます。各国は勝手に貨幣を鋳造していたので、一定した貨幣は存在しませんでした。そんな50年以上続いて、建隆元年(960年)に北宋(960年~1127年)が誕生しました。
貨幣の不統一に気付いた北宋は、粗悪な貨幣(主に鉄銭)を廃止して質の良い銅銭の鋳造を行うことにしました。開宝8年(975年)に南方の強国の南唐(937年~975年)を滅ぼして、江南に銅銭が行き渡るようにしました。鉄銭は廃止となり溶かして武器・農機具となりました。こうして北宋の貨幣統一策は成功した・・・・・・はずでした。
四川は鉄銭?
不思議なことに四川に銅銭は流通しなかったのです。考えられることは山奥であることから、運搬に不便だということがあったのだと思います。また四川は統一当初、宋の兵士が四川の民に略奪や暴行を働いたので、反朝廷感情の地域でもありました。実際に四川では北宋第2代皇帝太宗の時代に、王小波と李順という人が反乱を起こしています。このような状態だったので、四川の貨幣は北宋初期は鉄銭でした。
また、朝廷も四川に銅銭が入ることを禁じていました。
太平興国4年(979年)に禁令は解除されて流通するようになりますが、あまり浸透しませんでした。
銅銭の価値が上がると、鉄銭の価値は下落します。
逆のパターンも起きます。
こんなことが起きると困るのは商人でした。
そんな時に彼らはあるものを作りました。
世界初の紙幣
やがて四川の商人組合は、交子というものを作りました。
勝手にやったのではなく、役所の許可を得ていたので違法性ゼロです。
これが世界最初の紙幣です。
これが無かったら、『北〇の拳』の名ゼリフ「こんなもんケツを拭く紙にもならないっつうのによ!」は誕生したなかったのです。
すみません脱線したので、軌道修正します。
ちなみに、ヨーロッパ最初の紙幣は1789年に作られたアシニヤ紙幣であり、日本は寛文元年(1661年)に福井藩が発行した藩札が最初とされています。
中国最初の紙幣交子は天聖元年(1023年)に作られました。
中国は日本・ヨーロッパよりも600~700年以上早かったのです。
交子は四川だけで流通していましたが、なかなか便利だったので、朝廷も目をつけて権利を買い取りました。
北宋滅亡後、南宋(1127年~1279年)になってからは会子・関子という名前の変遷をたどりました。
名前の変遷があった理由は、インフレが起きたからです。
南宋は北方の金(1115年~1234年)と長年に渡る戦で勝ったり、負けたりを繰り返したので莫大な負債を抱えました。
金の滅亡後には新たに台頭したモンゴルに圧迫されていきました。
さらに、政治に失敗等挙げればいくつも出てきます。
そのため、インフレが起きるたびに紙幣を名称を変更してお金の価値を上げようと苦心したのです。
結局、莫大なインフレは解決の糸口が見つかることなく、世界最初の紙幣は宋の滅亡と一緒に消えていくことになりました。
しかし、後世に残した影響は大きくその後の王朝や各国でも紙幣が使用されていくのでした。
宋代史ライター 晃の独り言
いやー、疲れました(汗)
やっぱり、経済史は得意分野じゃないのできついです。
手元にある本を参考にさせてもらいました。
実は宋代の経済史の研究は始まってから、100年程度です。
新しい分野の学問です。
ちなみに戦前は宋代経済史の研究が多かったのです。
興味がある人は調べてみてください。
※参考文献
・河上光一『宋代の経済生活』(吉川弘文館 1966年)
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