1度滅んだ漢王朝を
不死鳥のごとく蘇らせた
後漢初代皇帝・光武帝(劉秀)。
彼は一体どのような人物だったのでしょうか?
その軌跡を辿ってみましょう。
この記事の目次
景帝の子・劉発の末裔
光武帝は前漢6代皇帝・景帝の子である
長沙定王・劉発の末裔です。
幼い頃、
光武帝はとても慎重で
物静かな性格だったのだとか。
きっと大人びた雰囲気の
クールな少年だったのでしょうね。
憧れの女性を見事ゲット
そんな光武帝ですが、
あるとき地元の美少女を見て一目惚れ。
彼女の名は陰麗華。
その美しさに男たちは
色めき立っていたのですが、
物静かな光武帝も
彼女の前では
冷静でいられなかったのではないでしょうか。
ところが、
光武帝には彼女を射止めるより先に
成し遂げるべき使命というべきものが
降ってわいてきます。
それは、
新・王莽を倒すことです。
兄・劉縯が挙兵するということで
光武帝も立ち上がることにしたのです。
しかし、
戦場でも陰麗華を忘れたことは無かったらしく、
光武帝は挙兵から約1年後に
ちゃっかり彼女をゲットしたのでした。
馬ではなく牛に乗って挙兵
兄・劉縯が漢王朝再興を志した頃、
劉縯は人望がそれほど高くなかったのか
兵が集まらずに困っていました。
そんな兄を見た光武帝は
兄を助けるべく挙兵。
すると、
慎重な性格の光武帝の判断が
誤りであるはずないと考えた人々が
続々と集まってきました。
舂陵軍の結成です。
しかし、
皇族の血を引く光武帝でしたが、
挙兵当初はとても貧乏だったらしく、
馬ではなく牛に乗っていたそうな。
牛での行軍は
さぞかしのんびりだったことでしょう…。
昆陽の戦いで王莽軍に大勝利
光武帝の一行・舂陵軍は
先に反乱を起こしていた緑林軍と連合。
ついに兄・劉縯が
淯陽で官軍を打ち破り戦果を上げます。
その後、
新皇帝を擁立しようという話になり、
劉縯が擁立されるかに思われましたが、
自分たちが与しやすい人が良いという武将たちの思惑により
特に何の取柄もない劉玄という人物が
更始帝として即位することに。
更始帝即位を聞きつけた王莽は
さっそく100万にも及ぶ大軍勢を差し向けてきましたが、
その軍がまたすごかった…。
なんと63派もの兵法家を同行させ、
さらに猛獣も連れて行くという暴挙に出たのです。
そんなにたくさんの兵法家がいたら
話がまとまらないでしょうし、
猛獣たちは訓練されていなかったらしく、
味方内で暴れるに違いありません…。
そんな滅茶苦茶な軍勢の一部が
光武帝が拠点としていた昆陽城に攻めてきました。
昆陽の戦いの始まりです。
しかし、
光武帝はそんなアホな軍と
まともにやり合うことをせず、
真夜中にわずか13騎で脱出し、
周辺の県から兵を集めて王莽軍を更に包囲。
王莽軍を見事蹴散らし、
見事大勝利を果たしたのでした。
更始帝がいたけど…とりあえず即位
時を同じくして
兄・劉縯も更なる戦果を挙げており、
光武帝は兄弟で名声を高めはじめました。
ところが、
更始帝がそんな彼らを牽制しはじめます。
ある日、
更始帝の即位に反対していた劉縯の部下が
更始帝からの官位授与を拒否するという事件が発生。
このことを反逆と見た更始帝は
劉縯の部下を誅殺しようとします。
ところが、劉縯が部下を必死で擁護。
これを見た更始帝は
「これはチャンス」と考えて
部下もろとも劉縯を殺害してしまったのでした。
更始帝はついでに光武帝も殺そうと考えましたが
光武帝は兄・劉縯の非礼を詫びて
事件について一切語らず
更始帝につけ入る隙を与えませんでした。
光武帝は中央から遠ざけられ、
河北に赴任させられるまで監視され続けました。
しかし、河北では
成帝の末裔と称する王郎によって命を狙われ
各地を転々としながら戦う羽目に。
光武帝の行軍は
極寒の中薪をかき集めて火を焚き
豆がゆや麦飯で飢えを凌ぐ有様だったそうな。
しかし、
厳しい行軍の最中に
王朗を拒否する太守たちと出会い、
ついに形成逆転。
王朗を下すに至ります。
そのことを聞きつけた更始帝は
再び監視下に置くべく光武帝を中央に呼び戻そうとしますが、
光武帝は河北平定を理由に拒否。
ついに独立を果たし、
部下のすすめによって
光武帝として即位したのでした。
中華統一後みるみる内に国力を回復
光武帝が即位して間もなく
更始帝が赤眉軍によって
殺害されるという事件が起こります。
狼藉の限りを尽くす赤眉軍を見た光武帝は
赤眉軍への攻撃を開始。
一度敗北するも、
赤眉軍を配下に引き入れることに成功します。
その後も光武帝は各地の勢力を次々と降伏させ、
ついに再び中華統一を果たしました。
光武帝は洛陽の名を雒陽と改めて都に定め、
奴隷の開放や税の軽減、兵の帰農を進めて
人々の生活が安定するような政治を行いました。
また、
王莽によって滅茶苦茶になっていた統治機構を
速やかに整備し国政の安定を図りました。
三国志ライターchopsticksの独り言
冷静な判断によって後漢の礎を強固なものにした光武帝。彼の偉業は後世においても讃えられています。
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