戦国時代の中でもとりわけ有名な事件といえばみんなが一度は耳にしたことのある「本能寺の変」だと思います。この事件は織田家の重臣・明智光秀が織田信長の宿泊地である本能寺を奇襲攻撃し、織田信長を殺害した事件です。
現代では戦国時代の研究が進んでいろいろな説が取り沙汰されていますが、本能寺の変が終わってから数百年後の江戸時代。江戸時代の歴史家の人々や武士、庶民の人達は明智光秀が織田信長を本能寺の変で暗殺した原因をどのように考えていたのでしょうか。
この記事の目次
織田信長は嫌われていた!?
織田信長は現代の私たちの時代ではゲームや小説、大河ドラマなどの影響もあり、老若男女を問わず人気の高い戦国時代の武将です。江戸時代でも織田信長は人気の高い戦国武将だったのでしょうか。残念ながら江戸時代は織田信長を嫌っている人々が多くいました。
さらに江戸時代の特権階級の武士の人達も織田信長を嫌っていました。江戸時代の人々は総じて織田信長を嫌っていたのです。どうして織田信長を嫌っていたのか。まずは武士の人々が織田信長を嫌っていた理由から見てみましょう。
どうして武士階級は織田信長を嫌っていたのか。
その理由は織田信長が儒学思想に反した行動ばかりをしていた事が原因です。例えば織田信長は比叡山延暦寺を焼き討ちしたり、尾張統一を行うために弟・織田信行を殺害したり、
江戸時代の武士達にしてみれば考えられないような行動ばかりしていた為、徳川幕府の武士達は織田信長を嫌っていたようです。武士は織田信長を嫌っていました。では徳川幕府の庶民の人々は織田信長をどのように思っていたのでしょうか。
どうして江戸時代の庶民は織田信長が嫌いだったの??
徳川幕府の庶民は織田信長が非情な行動をしていたため、大っ嫌いでした。しかし一部の庶民は織田信長の人材を登用方法や彼が行ってきた実績を考慮し、才能のある人物と認めていたそうです。
この庶民の織田信長の考え方は武士階級にも多少痛そうです。しかし織田信長の性格については誰もいいイメージを持っていたなかったようです。このように江戸時代における織田信長は現代のような人気のある戦国武将ではなく、武士・庶民から嫌われていました。
明智光秀のイメージは「いじめられっ子」
織田信長は江戸時代の武士や庶民から嫌われていました。では明智光秀はどのようなイメージを持たれていたのでしょうか。一言で言えば「いじめられっ子」です。
「祖父物語」と言われる書物によれば、明智光秀は織田信長から髪の毛を掴まれてぶん殴られたと記載があります。また「続武者物語」によれば明智光秀は織田信長が主催した宴会に参加しますが、お酒を飲まなかったそうです。
そのため織田信長は明智光秀を組み伏せて「酒を飲めないならこれを飲め」と言って刀を抜いて脅迫。更に織田信長は光秀の頭を鼓のようにバシバシ叩いたそうです。
江戸時代の人々は上記の織田信長の対応から明智光秀が信長にいじめられる可哀想な戦国武将や恨みをみっていたイメージを持っていたそうです。そして江戸時代では明智光秀が本能寺の変を起こした原因についてこのように考えられていたそうです。
本能寺の変の原因は怨恨説
江戸時代の歴史研究をしていた歴史家さんたちは明智光秀が織田信長から酷いいじめを受けていた為、明智光秀が本能寺の変を起こした原因について「織田信長に対する怨恨説」だと考えられていたそうです。
戦国史ライター黒田レンの独りごと
今回は江戸時代の人々が考えていた本能寺の変の原因について紹介しました。江戸時代の人々は明智光秀が信長を恨んでいた説を有力的な説として唱えていました。
しかしひとつの疑問が生まれませんか。それは明智光秀が織田信長を恨んで本能寺の変を起こした説に対して反対意見を大々的に唱えていない所です。どうして唱えなかったのでしょうか。レンの憶測ですが、江戸時代の人々は織田信長に対するイメージと良質な歴史資料を研究する方法が確立されていなかった事に原因があると思います。
■参考 吉川弘文館 検証本能寺の変など
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