日本史の授業で必ず習う江戸の三大改革、天保の改革。改革の指導者は水野忠邦ですがなんとなく無能なイメージがあるだけでどんな人物なのか?はあまり知られていないのではないでしょうか?そこで、今回は挫折した改革者。水野忠邦を解説します。
この記事の目次
1794年唐津藩主の次男として誕生
水野忠邦は1794年(寛政6年)唐津藩3代藩主、水野忠光の次男として誕生します。1805年、長兄の芳丸が早死にしたので唐津藩の後継者となり1812年に父忠光が隠居したので家督を相続しました。忠邦は野心が強く将来は幕府の政治を動かしたいと考えていて多額の賄賂を幕府の重臣たちにバラまきトントン拍子に出世していきます。
野心のため、小さな浜松藩へ国替え
しかし、唐津藩は長崎警備の任務があり、藩主は江戸に長期滞在できず出世も限られると知ると忠邦は唐津藩よりも10万石も石高が落ちる浜松藩に国替えを働きかけます。これには家臣たちは猛反対しますが忠邦は聞く耳を持たず国替えを実行。国替えの際に唐津藩の一部を賄賂として幕府領にするなどして幕府要人の心証を良くし1817年に老中への出世ポストである寺社奉行を兼任します。大損したかに見える忠邦ですが寺社奉行になった事で賄賂を受け取る立場になり、これを家臣たちにバラまいたので不満はある程度解消できました。
天保10年幕府の最高ポスト老中首座へ昇進
その後も忠邦は大坂城代、京都所司代のポストを歴任、1834年(天保5年)老中水野忠成が病死したため、代わって本丸老中に任命され1839年(天保10年)には老中首座に昇りつめました。賄賂の力で主席老中にまで上り詰めた忠邦にはどうしてもやりたい事がありました。それは年貢収入が激減し、日本近海に外国船が出没しているにもかかわらず徳川家斉の放漫財政が続いている幕府の政治を改める事でした。しかし、大御所家斉が生きている間は12代将軍の家慶はお飾りにすぎず、忠邦は何もできない状況でした。
大御所、徳川家斉の死後、天保の改革を開始
ところが1841年、大御所徳川家斉が死去。将軍家慶が実権を握った事で忠邦の権力は強化され、家斉時代の老臣を次々に辞めさせ自分の部下をそれぞれのポストに配置。天保の改革がスタートします。天保の改革の目的は農業の再生と国防の強化、そして贅沢になりすぎた幕府政治の引き締めでした。農業政策では忠邦は、江戸に流入している地方農民を強引に故郷に帰す人返しや物価を吊り上げているとして株仲間を解散させました。また、忠邦は札差(貸金業者)に多額の借金をしている幕臣や庶民の利子を帳消しにし返済期間を猶予するように命令を出し暮らしに困る庶民を助けるような政策も取っています。
一貫性がない忠邦の改革
ところが忠邦の政策は一貫性がなく、幕府の歳出を引き締める一方で、幕府の収入を増やそうと質が低い貨幣を発行して利ザヤを稼ごうとしたために救済策を台無しにするようなインフレが発生してしまいます。また利子の帳消しは札差の生活に打撃を与えその後は貸し渋りが横行し庶民の生活は余計に苦しくなりました。
江戸庶民に憎まれた贅沢禁止令
それよりも何よりも水野が庶民に嫌われたのは贅沢禁止令でした。派手な着物の禁止、高級食材を食べる事を禁止。浮世絵を禁止、歌舞伎見物の禁止、寄席を禁止冠婚葬祭もすべて質素に江戸庶民は忠邦に節約を押し付けられささやかな贅沢も奪われて不満を高めていきました。庶民の恨みはすさまじく忠邦が失脚すると忠邦の屋敷には石や瓦が何度も投げ込まれたそうです。
上知令で政治生命にトドメ
しかし、忠邦の政治生命を奪ったのは贅沢禁止ではありませんでした。忠邦は国防力を強化すべく、江戸や大阪の重要な土地を幕府の直轄領にしようと目論んだのです。これを上知令と言います。ただ、そのためには今、そこにある大名や旗本、御家人の土地を移転させないといけません。これには猛反対が起きました。忠邦は将軍の権威を背景に強引に上知令を実行しようとしますがここで忠邦の腹心だった鳥居耀蔵が離反忠邦に反対する老中、土井利位に機密文書を提出します。さらには、頼みの綱である将軍家慶も上知令に反対し、忠邦は老中をクビになりました。
返り咲くも反対派に隠居に追い込まれる
その後、土井利位が家慶の機嫌を損ねて一度は老中首座に返り咲いた忠邦ですが反忠邦派の抵抗はすさまじくまた享保の改革時の忠邦の部下の不正も次々に明るみに出てしまい忠邦は隠居、謹慎を命じられた上に懲罰として出羽国山形藩に飛ばされ1851年、56歳で生涯を閉じています。
天保の改革失敗の要因
天保の改革の失敗の要因は高度に資本主義化していた経済の現実を見ずに昔のような米を中心とした農本主義社会を理想にした事でした。忠邦がどれだけ頑張ろうと時代の歯車は逆回転せず天保の改革は経済を無駄に混乱させて終結。忠邦の死から2年後日本は運命の黒船来航を迎えます。
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