大坂のシンボルである大坂城。太閤さんの城として親しまれる大坂城ですが秀吉が建てた初代大坂城の遺構は二度と見る事が出来ないってご存知ですか?
最初の大坂城
最初の大坂城は1583年(天正11年)に羽柴秀吉により築城が開始されます。天下人秀吉が威信をかけて築城した結果、完成までに15年の歳月を費やしました。ところが大坂城の完成と共に秀吉は62年の生涯を閉じています。秀吉は完成した大阪城を見る時間はほとんどなかったんですね。
大坂夏の陣で灰になる
秀吉の没後、大坂城は秀吉の子、豊臣秀頼が引き継ぎます。しかし、1615年、大坂城は徳川軍により攻め込まれ炎に包まれました。ここまでは日本史の授業で習うので有名ですね。
徳川秀忠が大坂城を再建
焼けてしまった大坂城を再建したのは、家康を継いで将軍になった徳川秀忠でした。大坂夏の陣から5年後の1620年、大坂藩を廃止して徳川の直轄地に組み込んだ秀忠は大坂から豊臣カラーを払拭すべく工事を開始。9年の歳月と50以上の大名を動員し焼け残った初代大坂城の遺構の上に土台を築いて新しい大坂城を建てました。そのため、秀吉が建てた初代大坂城の遺構は2代目大坂城の下敷きになり見る事は出来ません。残念ですね。
江戸時代に落雷や火災で消失を繰り返す
再建された大坂城ですがその道のりは平坦ではありませんでした。1660年城内青屋門近くにあった土蔵造りの火薬庫に雷が直撃、内部にあった82トンの黒色火薬が大爆発します。被害は甚大で城内で29人が死亡しおよそ130人が負傷。天守や御殿、櫓、橋など、多数の建造物が損壊。城外でも3人が死亡し家屋1481戸が壊れ多数の家屋の屋根が破損しました。さらに、それから5年後1665年(寛文5年)またしても雷が天守北側の鯱に直撃。火災が生じて天守閣が焼失します。
鳥羽伏見の戦いで焼け野原
天守閣は焼失したものの、それ以外は健在だった大坂城ですが今度は戦災で消滅します。1868年1月27日から始まった鳥羽伏見の戦いの時、本丸御殿の台所より出火。火は瞬く間に燃え上がり二番櫓、三番櫓、坤櫓、伏見櫓、京橋門、多聞櫓、青屋門を除き焼失、焼け野原になってしまいました。
明治から昭和にかけて重火器工場に
明治に入ると経済の立て直しに多忙な明治新政府は大坂城を再建せず代わりに広大な跡地には大砲などを製造する重火器工場が置かれました。なんでしょう。この江戸時代以来の既視感は嫌な予感しかしません。しかし、昭和3年東洋一の大都市になった大阪市では大阪市長の關一が昭和天皇即位記念事業として大阪城天守閣及び周辺建造物の再建を開始します。大阪市民も大阪城再建に前向きで募金も当時の価格で150万円、現在価値では60億円も集まりました。昭和6年に天守閣が再建されるとそこは天守閣歴史館となり展望台になりました。以後、徐々に周辺の建物が整備され大阪城は過去の威容を取り戻していきます。
大阪大空襲でも辛うじて天守は残る
大東亜戦争末期の大阪空襲では大阪城内に重火器工場がある事からB29の爆弾が大阪城の周辺に落されます。あわや3度目の落城かと思われましたが天守閣は破損したものの炎上を免れました。このようにして、大坂城は現在まで引き継がれたのです。豊臣秀吉の大坂城の遺構は徳川時代の大坂城に覆われもう見る事は出来ませんが大坂城は大阪府民の力で昭和に入って再建され現在まで愛されているのです。
▼こちらもどうぞ
今から81万年前、人類は1280名まで減少していた![衝撃の科学]