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豊臣秀吉が建てた大坂城の遺構は二度と見る事が出来ない?[その理由は]

2023年9月21日


名古屋城

 

大坂のシンボルである大坂城。太閤さんの城として親しまれる大坂城ですが秀吉が建てた初代大坂城の遺構は二度と見る事が出来ないってご存知ですか?

 

 

監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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最初の大坂城

寿命で亡くなる豊臣秀吉

 

最初の大坂城は1583年(天正11年)に羽柴秀吉により築城が開始されます。天下人秀吉が威信をかけて築城した結果、完成までに15年の歳月を費やしました。ところが大坂城の完成と共に秀吉は62年の生涯を閉じています。秀吉は完成した大阪城を見る時間はほとんどなかったんですね。

 

大坂夏の陣で灰になる

炎上する城a(モブ)

 

秀吉の没後、大坂城は秀吉の子、豊臣秀頼が引き継ぎます。しかし、1615年、大坂城は徳川軍により攻め込まれ炎に包まれました。ここまでは日本史の授業で習うので有名ですね。

 

徳川秀忠が大坂城を再建

暗殺(毒殺)モブ

 

焼けてしまった大坂城を再建したのは、家康を継いで将軍になった徳川秀忠でした。大坂夏の陣から5年後の1620年、大坂藩を廃止して徳川の直轄地に組み込んだ秀忠は大坂から豊臣カラーを払拭すべく工事を開始。9年の歳月と50以上の大名を動員し焼け残った初代大坂城の遺構の上に土台を築いて新しい大坂城を建てました。そのため、秀吉が建てた初代大坂城の遺構は2代目大坂城の下敷きになり見る事は出来ません。残念ですね。

 

 

江戸時代に落雷や火災で消失を繰り返す

世界史02 爆発が起きる都市 モブ

 

再建された大坂城ですがその道のりは平坦ではありませんでした。1660年城内青屋門近くにあった土蔵造りの火薬庫に雷が直撃、内部にあった82トンの黒色火薬が大爆発します。被害は甚大で城内で29人が死亡しおよそ130人が負傷。天守や御殿、櫓、橋など、多数の建造物が損壊。城外でも3人が死亡し家屋1481戸が壊れ多数の家屋の屋根が破損しました。さらに、それから5年後1665年(寛文5年)またしても雷が天守北側の鯱に直撃。火災が生じて天守閣が焼失します。

 

 

鳥羽伏見の戦いで焼け野原

大政奉還した徳川慶喜

 

天守閣は焼失したものの、それ以外は健在だった大坂城ですが今度は戦災で消滅します。1868年1月27日から始まった鳥羽伏見の戦いの時、本丸御殿の台所より出火。火は瞬く間に燃え上がり二番櫓、三番櫓、坤櫓、伏見櫓、京橋門、多聞櫓、青屋門を除き焼失、焼け野原になってしまいました。

 

 

明治から昭和にかけて重火器工場に

日本史01 煙を吐く工場

 

明治に入ると経済の立て直しに多忙な明治新政府は大坂城を再建せず代わりに広大な跡地には大砲などを製造する重火器工場が置かれました。なんでしょう。この江戸時代以来の既視感は嫌な予感しかしません。しかし、昭和3年東洋一の大都市になった大阪市では大阪市長の關一が昭和天皇即位記念事業として大阪城天守閣及び周辺建造物の再建を開始します。大阪市民も大阪城再建に前向きで募金も当時の価格で150万円、現在価値では60億円も集まりました。昭和6年に天守閣が再建されるとそこは天守閣歴史館となり展望台になりました。以後、徐々に周辺の建物が整備され大阪城は過去の威容を取り戻していきます。

 

 

大阪大空襲でも辛うじて天守は残る

飛行機(プロペラ)に乗るkawausoさん

 

大東亜戦争末期の大阪空襲では大阪城内に重火器工場がある事からB29の爆弾が大阪城の周辺に落されます。あわや3度目の落城かと思われましたが天守閣は破損したものの炎上を免れました。このようにして、大坂城は現在まで引き継がれたのです。豊臣秀吉の大坂城の遺構は徳川時代の大坂城に覆われもう見る事は出来ませんが大坂城は大阪府民の力で昭和に入って再建され現在まで愛されているのです。

 

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台湾より南、フィリピンよりは北の南の島出身、「はじめての三国志」の創業メンバーで古すぎる株。もう、葉っぱがボロボロなので抜く事は困難。本当は三国志より幕末が好きというのは公然のヒミツ。三国志は正史から入ったので、実は演義を書く方がずっと神経を使う天邪鬼。

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