西夏(1038年~1227年)は現在の中国の甘粛省・寧夏回族自治区に建国されていた王朝です。
通称タングート族と呼ばれています。
当時、中国を支配していた北宋(960年~1127年)とは戦争を行うほどの対立関係でした。北宋滅亡後は南宋(1127年~1279年)とも対立することになりますが、北宋ほどの激しい関係ではありません。
ところで、筆者は最近になり西夏の王陵(墳墓)があることを知りました。
「お前、記事を執筆しているくせに知らなかったのかよ!」
と思うかもしれませんが、筆者が持っている参考文献には何も掲載されていないのでお許しください。
そこで、今回は西夏の王陵に関して解説致します。
東宝のピラミッド?西夏王陵とは何?
どうやら、西夏の王陵は〝東宝のピラミッド〟と呼ばれているそうです。
そんな凄いものなのか、と思って筆者は早速しています調べてみました。
・・・・・・?
写真を見た時、筆者はだまされたのかと思いました。
ピラミッドと言えば、エジプトのピラミッドが想像されました。
しかし、西夏の王陵は「土饅頭」か「アリの巣」の巨大化というのがピッタリです。
全部で9つある西夏の王陵
西夏の王陵はいくつあるのでしょうか?
驚いたことに9つもあるのです。
これだけあるにも関わらず、今まで有名ではなかったのは不思議です。
ちなみに王陵は誰のものかは以下の通りです。
1号王陵・・・・・・太祖 李継遷
2号王陵・・・・・・太宗 李徳明
4号王陵・・・・・・毅宗 李諒祚
5号王陵・・・・・・恵宗 李乗常
6王陵・・・・・・崇宗 李乾順
7号王陵・・・・・・仁宗 李仁孝
8号王陵・・・・・・桓宗 李純祐
9号王陵・・・・・・襄宗 李安全
7代皇帝李安全の後も3人の皇帝がいるのですが、現在に至るまで王陵は発掘されていません。
筆者はおそらく無いと考えています。
なぜなら、西夏は連年モンゴルに侵攻されており、財政的に王陵をつくる余裕は無かったと思われるからです。
以外なことは、初代皇帝の李元昊からではなく、それ以前の李継遷から始まっていることです。
これに関しては、以下のことが理由と考えられます。
タングート族の内紛
北宋第2代皇帝太宗の太平興国7年(982年)のことです。タングート族の酋長の李継筠が亡くなりました。
その弟の李継捧が後を継ごうとするも、一族から反対者が多く出て内紛になりました。李継捧は仕方なく、領地を与える代わりに北宋に保護を求めました。
承諾した北宋も李継捧を保護して、タングートの地に官吏を派遣しました。
李継遷の反乱
ところが、李継捧の族弟の李継遷が北宋の保護下で過ごすことに不満を持っていました。李継遷は反乱の準備をしましたが、これは北宋に察知されて襲撃を受けました。
逃亡した李継遷は、再び部下を集めて北宋に反乱を起こしました。李継遷が反乱を起こした時期は、北宋と遼(916年~1125年)が交戦中の時期でした。李継遷は遼と姻戚関係を結び、援助を受けて北宋を苦しめました。
北宋は一時期、李継遷に対して官爵を与えることで懐柔作戦を試みました。李継遷も最初は従っていましたが、すぐに反旗を翻しました。それどころか、北宋の保護下で大人しくしていた李継捧まで反抗を始めました。
李継捧は間もなく捕縛されましたが、李継遷は定まった城中におらず、砂漠を転々と移動する作戦で逃げ回り北宋を苦しめました。次々と李継遷に西方の領土を奪われた北宋は、チベット系の西蕃族に李継遷の討伐を頼みました。
西蕃族は李継遷に降伏したフリをしました。そして隙を見て、李継遷に攻撃を仕掛けました。
李継遷はこの時、流れ矢に当たり亡くなりました。
時に北宋の第3代皇帝真宗の咸平6年(1003年)でした。このように李継遷は北宋に最初に反抗した人物なので、西夏にとって英雄なのです。
だから、最初に祀られているのでしょう。
宋代史ライター 晃の独り言
以上、西夏の王陵に関しての記事でした。ちなみに、西夏の王陵がどうして東宝のピラミッドと呼ばれているのかと言いますと、砂漠の中にあるからです。
安易ですね・・・・・・
だったら、他の遺跡も砂漠にあったら全てピラミッドですよ。
▼こちらもどうぞ