藤原摂関政治に終止符を打ち院政へ道を開いた[後三条天皇]はどんな人?

2023年9月30日


清少納言 女性

 

 

来年のNHK大河ドラマは光る君へで、藤原道長の生涯が描かれますね。さて、藤原氏といえば娘を天皇の妃として自分は天皇の外戚となり摂政と関白の職を一門で独占したイメージです。でも、そんな藤原氏の摂関政治を打破した人物については、あまり知られていないかも知れませんね。そこで今回は藤原摂関政治を打ち破り天皇権力を回復した後三条天皇を解説します。

 

 

監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。戦略設計から実行までの知見を得るためにBtoBプラットフォーム会社、SEOコンサルティング会社にてWEBディレクターとして従事。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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後朱雀天皇の第二皇子として誕生

安徳天皇

 

後三条天皇は後朱雀天皇の第二皇子として誕生します。諱は尊仁でした。しかし、尊仁親王はほぼ生まれながらにして藤原氏と対立する立場にありました。それは、親王の生母が三条天皇の第三皇女であり藤原氏の血筋を引いていなかったからです。そのため、時の関白藤原頼通と教通兄弟に疎んじられますが、2人の異母兄弟である藤原能信は尊仁親王を庇い支援したそうです。

 

 

子どもが生まれない後冷泉天皇の皇太弟へ

朝廷(天皇)

 

尊仁親王の兄の親仁親王には藤原頼通の娘、寛子が嫁いでいて後朱雀天皇から譲位されて後冷泉天皇として即位しました。これで後冷泉天皇に男子が生まれれば藤原摂関政治の継続ですが、天皇と藤原寛子の間には子供が生まれませんでした。これを心配した後朱雀天皇は、後冷泉天皇の弟である尊仁親王を皇太弟とします。この皇太弟とは、万が一、天皇が子供を残さず崩御した場合に天皇に即位できる地位で暫定の皇位継承順位1位です。ただし、皇太子が誕生すると自動的に皇太子が皇位継承者となり、皇太弟は継承順位2位に格下げされます。そんなわけですが、それでも藤原摂関家は万が一を恐れて尊仁親王が皇太弟になる事に難色を示しますがここは、藤原道長の子である藤原能信が押し切りました。

 

 

皇太弟となっても冷遇される尊仁親王

 

こうして暫定皇太子となった尊仁親王ですが藤原頼通、教通の妨害は続き、それ以外の貴族も摂関家に睨まれている皇太子に近づこうとはしません。皇太子に嫁を出す貴族もなく、藤原能信が妻の姪を養女とし藤原茂子として輿入れさせています。また摂関家は本来、皇太子に与えられる桐壺御剣をこれは藤原氏の血筋の皇太子に与えられるものと理由をつけ尊仁親王が即位するまで与えなかったそうです。こうしてみると、一昔前のテレビドラマの悪役も顔負けですが、一方で藤原頼通は尊仁親王が後三条天皇として即位すると、後一条天皇の娘である藤原馨子を入内させるなど全く後三条天皇を無視していたわけでもないようです。

 

 

後冷泉天皇の死後、後三条天皇として即位

孝明天皇(怒っていない)ver

 

藤原摂関家の命運を後冷泉天皇の皇子誕生に懸けた、藤原頼通、教通兄弟ですが、後冷泉天皇と藤原寛子の間に男子は誕生せず、1068年に崩御。こうして34歳にして尊仁親王は71代後三条天皇として即位します。後三条天皇が即位すると関白藤原頼通は絶望のあまり引退しました。これで藤原摂関政治が終わると覚悟したのでしょう。

 

 

藤原摂関家以外に中級官僚を登用

公家同士の会議(モブ)

 

さあ、ここから後三条天皇の逆襲か?と思いきや、大人な後三条天皇は露骨な復讐をしませんでした。天皇は要請に従い引退した藤原頼通の弟である教通を関白に任じます。もちろん、だからって藤原氏の言いなりになるつもりはありません。ちゃんとカウンターとして亡くなった藤原能信の養子の藤原能長や村上源氏の源師房、源経長等を登用して摂関家の権力独占を阻止。家柄で出世から遠いものの能力がある大江匡房や藤原実政等の中級貴族などを登用し藤原氏を使わずに天皇親政を実現します。

 

 

荘園整理令と日本統一

荘園に逃げ込む鉄の職工達

 

後三条天皇が取り組むべき課題は大きく2つありました。ひとつは本来の国有地まで取り込んで拡大する荘園の整理。もうひとつは国力の問題で頓挫していた蝦夷征討でした。後三条天皇は延久の荘園整理令を発し大江匡房をリーダーに記録荘園券契所を設置。日本全国の荘園を調査し、不正に造られた荘園を没収国有地に編入しました。これにより、日本一の荘園所有者、藤原摂関家の勢力は衰退し皇室の財政は改善農民も不当な搾取から解放されたそうです。蝦夷征討では、延久蝦夷合戦を通じて津軽半島や下北半島まで本州全土に大和朝廷の勢力が延びました。

 

 

寿命には恵まれず40歳で崩御

長安(俯瞰で見た漢の時代の大都市)

 

同時に天皇は延久宣旨枡を正式な升として税金の徴収に不正がないようにし、估価法を導入して、史上での品物の公定価格を定めます。こうして律令制の形骸化で衰えた皇室の権力を強化した後三条天皇ですが、寿命には恵まれず皇太子の貞仁親王に譲位した翌年1073年病に倒れ40歳で崩御しました。

 

 

子の白河天皇の時代に院政が確立

木曾義が平家に敗北したチャンスを逃さない後白河法皇.jpg

 

しかし、後を継いだ貞仁親王こそが後の白河天皇であり、上皇として院政を敷き藤原摂関家を遠ざけて、院の近臣と呼ばれるお気に入りを登用、その権力は天皇を凌ぎ治天の君と呼ばれるようになります。そして、この白河上皇に引き立てられたのが中級官僚の伊勢平氏の平正盛であり、その子の平忠盛でした。忠盛の子が有名な平清盛であり、時代は院政から武家政治へ転換していきます。

 

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台湾より南、フィリピンよりは北の南の島出身、「はじめての三国志」の創業メンバーで古すぎる株。もう、葉っぱがボロボロなので抜く事は困難。本当は三国志より幕末が好きというのは公然のヒミツ。三国志は正史から入ったので、実は演義を書く方がずっと神経を使う天邪鬼。

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