今回は織田信長の業績について取り上げます。信長の業績について、戦争・人材登用・行政の3つのテーマに分けて紹介します。
織田信長の戦争における業績とは?
織田信長は父・織田信秀が死んだことに伴い、家督を継ぐことになりました。1560年に桶狭間の戦いで今川義元を破ると、美濃国の侵略、伊勢長島一向一揆と石山本願寺、浅井長政、朝倉義景、波多野秀治、武田勝頼ら多くの大名を滅ぼし、全国のほとんどを支配しました。
織田信長の戦い方について特徴があるといわれています。1575年の長篠合戦では鉄砲を使った集団戦法が有名ですが、信長の戦い方で奇抜なのが鉄甲船を使った第二次木津川口の戦いです。
木津川口の戦いは石山本願寺と毛利輝元が率いる村上水軍の連合軍との戦いです。第一次木津川口の戦いでは、石山本願寺が毛利輝元に助けを求めたことで始まりました。織田信長は九鬼水軍を派遣しましたが、村上水軍の焙烙玉によって壊滅的な損害を受け、信長の軍は敗れました。
織田信長は九鬼水軍を率いていた九鬼嘉隆に対して、焙烙玉でも被害を受けない鉄で覆われた船を造るように命じました。この船は鉄甲船といい、鉄甲船の中には大砲が装備されています。第二次木津川口の戦いでは鉄甲船を率いた織田信長の軍が勝利し、石山本願寺を明け渡すことになりました。
織田信長の戦いは『信長公記』など多くの史料に残されています。しかし、木津川口の戦いで用いられた鉄甲船については、木津川口の戦い以降の戦いで使われたという記録が史料にありません。
織田信長の人材登用
織田信長といえば実力主義による人材登用で有名です。実力主義による登用を始めたきっかけは家督を継いだ頃で駿河国の今川義元を警戒していたことでした。今川義元の領国経営「寄親・寄子」制を参考にしようとしますが、信長に従う家臣は少なく、思うような組織を作ることができませんでした。
そこで、信長は二男・三男以下の男子に注目します。当時、武士の次男・三男以下は養子に出されるか出家しない限り、ニートに近い状態で仕事がありませんでした。信長は仕事のない二男・三男以下の若者に仕事を与えました。仕事のない若者が信長の家臣となり、活躍しました。
活躍した家臣では、木下藤吉郎(後の豊臣秀吉)・前田利家・滝川一益らが有名です。信長は登用した若者を戦いに専念できるようにしたことから兵農分離の足がかりになったといえるかもしれません。
織田信長の行政政策
織田信長の行政面での実績として、楽市楽座や関所の廃止が挙げられます。楽市楽座以前は、座に所属していないと自由に商売をすることができませんでした。信長はその閉鎖的な仕組みを撤廃し、自由に取引ができるようにしました。美濃国の加納や近江国の安土で始め、豊臣秀吉は自らの政権で楽市楽座を全国規模で推進しました。
関所は国境に設置され、関銭を徴収していました。織田信長は関銭徴収のために置かれていた関所を撤廃し、商業・交通の発達を促しました。関所の撤廃は織田信長の後の豊臣秀吉政権でも引き継がれ、全国的に実施されました。
戦国時代ライターオフィス樋口の独り言
今回は織田信長の業績について、戦争・人材登用・行政の3つのテーマに分けて紹介しました。信長の戦争における業績として、戦での勝ちを重ねてほぼ全国を平定したことを挙げました。信長の戦い方で奇抜なものとして第二次木津川口の戦いで鉄甲船を使ったことを挙げました。
織田信長の人材登用について取り上げました。武士の二男・三男以下のニートに近い状態の若者を積極的に登用しました。身分に関係なく能力のある人材を登用する点で、他の戦国大名と共通しています。
他の戦国大名との違いを挙げるとすれば次の点かもしれません。信長の場合、このような若者とは遊び仲間でした。遊び仲間を直属の家臣にした点が他の大名と異なるかもしれません。
最後に、織田信長の行政政策として楽市楽座と関所の撤廃を挙げました。これらの信長の行政改革は規制緩和という点で現代の政治につながるところがあるかもしれません。
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