今回は井伊直政の死因について取り上げます。この記事の前半では井伊直政の生涯について紹介します。後半では火縄銃と死亡との因果関係について取り上げます。
井伊直政とはどんな人?
井伊直政は1561年に遠江国の井伊谷城主の井伊直親の嫡男として生まれました。直政が2歳の時、城主の井伊直親が謀反の疑いをかけられ殺害されると、同族に身を隠しながら元服するまで養われました。
1575年に徳川家康に家臣になりました。家臣になると井伊家の先祖伝来の地である井伊谷の所領を回復することに成功しました。また、家臣になると数多くの武功を挙げました。このことが評価され、井伊直政には武田信玄の家臣だった飯富虎昌の赤備えを引き継ぎました。
1600年、関ヶ原の戦いで徳川家康が率いる東軍に加わります。関ヶ原の戦い後、近江国の佐和山城に移ります。
佐和山城から彦根城に城を移し、彦根藩主となりました。関ヶ原の戦いで薩摩の島津義弘の軍を追撃したときに鉄砲に撃たれました。鉄砲で即死することはありませんでしたが、鉄砲の傷が原因で1602年に死亡しました。
火縄銃で撃たれるとどのような症状が出るのか?
火縄銃で撃たれると、体に穴が開きます。直径10mmの弾で撃たれると、体に20mmの穴が開きます。鉄砲で撃たれると、即死する場合と即死ではない場合があります。ここでは、それぞれの場合についてどのような症状がでるのか紹介します。
火縄銃で即死する場合を取り上げます。まず、弾丸が脳に命中することが挙げられます。脳に命中すると、神経が機能しなくなり即死します。心臓の場合、全身に血液を流すポンプのような役割を果たすことから血流が止まり即死に至ります。脳や心臓以外では動脈に命中した場合が挙げられます。太い動脈であれば出血多量で死亡します。
即死でない場合を取り上げます。命を取り留め、戦場から離脱できたとしたらすぐに処置しなければなりません。処置しないと感染症を引き起こします。具体的にはガス壊疽という症状が出ます。ガス壊疽とは傷口から侵入した細菌が筋肉を壊死させる病気です。二酸化炭素やメタンを発生させながら感染が広がり、筋肉が腐ります。やがて臓器に影響が出て死に至る病気です。
井伊直政の死因とは?
井伊直政は鉄砲に撃たれたことによる傷で死亡しました。井伊直政の場合、関ヶ原の戦いから約1年半後に死亡していることから感染症による死亡が有力です。死因はガス壊疽であると考えられます。
関ヶ原の戦いにおいて鉄砲で撃たれ、毒素が血中に流入しました。弾丸に入った毒素が周囲の組織を壊死させ、血行障害による酸素不足が起こりました。やがて、敗血症を起こし、多臓器不全で井伊直政は死亡しました。
現代の戦争においてガス壊疽による死亡は少なくなっています。ガス壊疽の治療法として抗生剤の大量投与や高圧酸素を投与することによる治療法が確立されています。
なお、井伊直政の死因については破傷風という説もありました。しかし、破傷風の潜伏期間が3日から3週間であることや井伊直政が関ヶ原の戦いから1年半生きていることから矛盾します。破傷風については否定的な見解です。
戦国時代ライターオフィス樋口の独り言
今回は井伊直政の生涯について振り返るとともに関ヶ原の戦いでの鉄砲傷について取り上げました。この記事を通して、井伊直政の死因は感染症であることが分かりました。具体的にはガス壊疽で敗血症を起こし、多臓器不全に至ったことによって死亡しました。
破傷風という説もありましたが、潜伏期間を考慮すると否定的であることも分かりました。今後、戦国武将の死因について鉄砲の傷によるものだけでなく病気によるものにも注目したいと思います。
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