イケメン武将・井伊直政の逸話とは?戦いの傷が多かった?また評判は?

2019年5月31日


 

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井伊直政

 

井伊直政(いい なおまさ
)
は1561年に遠江国(とおとうみのくに
)
の井伊谷城主の井伊直親(いいなおちか
)
の嫡男として生まれました。

 

徳川家康

 

1575年から徳川家康(とくがわいえやす)の家臣となると、徳川四天王の1人として知られるようになります。

 

薩摩藩の島津義弘

 

1602年に1600年の関ヶ原の戦い(せきがはらのたたかい
)
で鉄砲傷を負い、その傷が原因で死亡しました。

 

井伊直政

 

井伊直政は42年の生涯でしたが、今回は直政に関するエピソードについて紹介します。

 

 

 

 

監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。戦略設計から実行までの知見を得るためにBtoBプラットフォーム会社、SEOコンサルティング会社にてWEBディレクターとして従事。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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井伊直政はイケメンだった?

織田信長

 

井伊直政がイケメンだったことは有名です。戦国武将の間では衆道(しゅどう
)
が流行っていました。衆道では織田信長(おだのぶなが)森蘭丸(もりらんまる)が有名です。徳川家康については衆道をあまり好まなかったといわれていますが、井伊直政とは衆道の関係にあったということです。徳川家康だけでなく同僚の家臣とも衆道で関係を持ったようです。

 

 

 

戦いでの傷が多かった井伊直政

戦国時代の合戦シーン(兵士モブ用)

 

井伊直政といえば、徳川四天王の1人で井伊の赤備えが有名です。戦では重装備であるにもかかわらず、傷が絶えなかったといわれています。常に直政は先頭に立って戦っていたことが原因かもしれません。

 

本多忠勝

 

同じ徳川四天王の1人である本多忠勝(ほんだただかつ
)
は、軽装備であり、戦の最前列で戦っているにもかかわらず、かすり傷すらおったことがありません。忠勝の唯一の傷は小刀で名前を彫っていたときに手元が狂って負ったものでした。この小刀でケガをした数日後、本多忠勝は63歳で病死しました。

 

はじめての戦国時代

 

 

井伊直政は評判が悪い

井伊直政

 

井伊直政は徳川家康から信頼されていた家臣として知られています。他の戦国大名から人物・政治手法について高く評価されていたといわれています。一方で、井伊直政の家臣の間では評判が悪かったといわれています。直政は自分の家臣に対して相当厳しいです。井伊直政の性格は気性が荒く、口頭で注意するよりも暴力が多かったようです。井伊直政が自ら家臣を手討ちにすることもあったといわれています。直政に呼び出された家臣は別れの杯を交わしたという逸話があります。また、直政の家臣の中には大名の徳川家康に直政の家臣から外れたいという要望を出した人もいます。

 

井伊直政

 

家臣にとって井伊直政は胃の痛い上司であることは間違いないのですが、徳川家康から処分を受けることなく、直政が生涯家康の家臣でいることができたのは偶然ではないといえます。家康が直政を相当信頼していたといえます。

 

足軽b-モブ(兵士)

 

家臣に厳しかった要因として、井伊直政の父・井伊直親が家臣に裏切られて殺されたことが考えられます。徳川家康から直政につけられた家臣が古くから仕えた家臣ではなく、天目山の戦い(てんもくざんのたたかい)で滅亡した武田家の遺臣だったことも厳しかった理由として考えられます。

 

 

戦国時代ライターオフィス樋口の独り言

三国志ライター オフィス樋口

 

今回は井伊直政の逸話について紹介しました。井伊直政はイケメンであることからイケメンに関する逸話を最初に取り上げました。次に、戦いでは赤備えで有名な井伊直政について、常に先頭で戦っていることから傷が絶えなかったことを取り上げました。直政は最前線で危険を顧みずに戦っていることが分かりました。

 

しかし、かすり傷すら負ったことがない本多忠勝と比べるとなぜ井伊直政の傷が多いのか疑問に思う読者がいると思います。本多忠勝と井伊直政の戦い方について比較する形で注目したいと思います。井伊直政について、戦国大名による評価と直政の家臣による評価が異なることが分かりました。井伊直政は気性が荒い性格で、部下の失敗に鉄拳制裁を辞さないことが多かったようです。

 

野球をする呂布、孔明、劉備

 

現代では中日ドラゴンズ・阪神タイガース・楽天ゴールデンイーグルスの監督だった星野仙一と重なるところがあるのかもしれません。星野仙一(ほしのせんいち
)
監督については選手が監督を変えてくれと言う要望を出さず、必死になって監督についていきました。

 

野球を応援する女子(女性)

 

一方で、井伊直政については徳川家康に交代要請を出しています。井伊直政と星野仙一の違いがどこにあるのか気になります。

 

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自己紹介:フリーランスで予備校の講師をしています。 歴史が好きで、予備校では主に日本史を指導しています。 センター試験の点数を40点台から80点台に伸ばした実績があります。 好きな歴史人物:徳川慶喜(理由:多趣味であることが共通しているから)

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