戦国時代は多くの宣教師が来日したことがきっかけとなり、日本にキリスト教が普及した時代で、多くの戦国武将や大名がキリスト教へ入信。関ヶ原の戦いの主要人物の一人・小西行長や黒田官兵衛もキリスト教に入信していました。
このように多くの戦国武将がキリスト教に入信しますが、明智光秀はキリスト教が嫌いでした。どうして明智光秀はキリスト教が嫌いだったのでしょうか。
織田家では南蛮文化が流行していた!?
織田信長は宣教師を招いて世界情勢などいろいろな話を聞き、安土や京都にキリスト教の教会の建築を許し、南蛮の文化に興味を持っていました。また織田家の新規に加入した摂津の高槻城主・高山重友は戦国時代のキリシタン大名として有名な人物でした。
このように織田家の領地や織田家の大名の中に南蛮文化が入り込むと共にキリスト教も少しづつ流行っていきます。しかし明智光秀はキリスト教が嫌いでした。どうして明智光秀はキリスト教が嫌いだったのでしょうか。明智光秀のキリスト教嫌いのヒントをあの有名人が説明していました。
ルイス・フロイスの記述
日本を訪れたカトリック宣教師の一人・ルイス・フロイス。彼は織田信長と何度も会っていた人物で、「フロイス日本史」と呼ばれる日本の戦国時代の記述を記した書物があります。ルイス・フロイスはこの書物の中で「明智は悪魔とその偶像の友人で、我らに対してはいたって冷淡。それだけじゃなく悪意さえ抱いている。デウスのことについてなんの愛情も有していないことが分かったから、今後どのようになるかまったく分からない。」と記載しています。
ルイス・フロイスが示している悪魔とその偶像と言うのは日本の仏教(悪魔)と大仏(偶像)を指しています。この記述から明智光秀がキリスト教や南蛮文化に対してあまりいい感情を持っていなかったもしくはキリスト教が嫌いだった事が伺えると思います。他にも明智光秀がキリスト教や南蛮文化が嫌いな理由を探ってみたいと思います。
明智軍団はキリスト教が嫌い
明智光秀は軍事・政治に優れた才能を持った人物です。その証左として明智光秀は近江衆・丹波衆・山城衆・細川藤孝・筒井順慶など多くの大名を部下として動かしています。
上記で挙げた筒井順慶の家は興福寺の衆徒を束ねていた家柄で、仏教に深い関係をもっていた人でした。また細川藤孝は茶道・歌道などを修めた文化人で、戦国時代における一流の教養人です。
彼らはキリスト教と言われる訳のわからない宗教(戦国時代当時)や南蛮文化に対してあまりいい感情を抱いていませんでした。そのため明智光秀も彼らと同じようにキリスト教や南蛮文化にいい感情を持っていなかったと思われます。ここで一つ妄想してみましょう。もし明智光秀がキリスト教に入信したらどうなったのでしょうか。
明智光秀の軍団が崩壊!?
もし明智光秀がキリスト教に入信したらどうなったのでしょうか。明智光秀がキリスト教に入信したら、光秀率いる軍団は崩壊することになり、織田信長から織田家を追放されていたかもしれません。光秀がキリスト教に入信しただけで、どうして上記のような事態になるのでしょうか。
キリスト教のせいで崩壊した戦国大名
九州の大友家の当主・大友宗麟は自らキリスト教に入信。大友宗麟は「キリスト教の国」を作るため、九州各地に領土を拡大した後、寺院をぶっ壊したり、国内にキリスト教の習慣を植えていきます。
この結果、大友宗麟の部下達は宗麟に反発し、家中が分裂していき弱体化していくのでした。もし明智光秀がキリスト教に入信した場合、大友家のように酷くなる事はないと思いますが、光秀の軍団を構成している細川藤孝や筒井順慶などの部下達が光秀の指示を受なくなる可能性が大いに高いと思われます。
そして織田信長は明智光秀が自分の部下を動かすことができない事を理由に与えた領土を没収して、織田家を追放していたかもしれません。
戦国史ライター黒田レンの独り言
今回は明智光秀がキリスト教を嫌っていたことについて色々と書き連ねてきました。明智光秀はキリスト教が嫌いでした。しかし明智光秀の娘はキリスト教に入信しています。明智光秀の娘は細川忠興と結婚した細川ガラシャです。
彼女は明智光秀が亡くなった後、キリスト教の教義に興味を持ち始め、その後キリスト教へ入信しますが、苛烈な最後を迎えることになります。彼女の苛烈な最後のお話はまた違う機会にお話したいと思います。
■参考 「信長軍の司令官―部将たちの出世競争 (中公新書)」
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