今回は幕末の写真家上野彦馬について取り上げます。上野彦馬についてはこれまでに『中岡慎太郎の写真の謎?近藤勇との意外な関係とは?』で、中岡慎太郎と謎の女性の関係について取り上げました。この記事では、上野彦馬を中心に取り上げます。
上野彦馬とは
1838年、上野彦馬は上野俊之丞の次男として長崎に生まれました。上野俊之丞は幕末に銀板写真を伝えた人物で、島津斉彬の写真を撮った人物として有名です。上野彦馬は江戸時代の儒学者広瀬淡窓の私塾・咸宜園で学んだ後、オランダ人軍医に師事するために医学伝習所に入ります。
オランダの書物から湿板写真術を知り、関心を持ちました。このことが上野彦馬の写真家となるきっかけとなります。上野は長崎で化学を学びました。化学の勉強だけでなく、海外のプロ写真家が来日したときに写真の指導も受けています。1862年に故郷の長崎に戻って上野撮影局を開業しました。この写真館は日本初の写真館であるといわれていましたが、前年に鵜飼玉川が神戸市内で写真店を開業していたという記録が残っています。上野は1877年に日本で初めて西南戦争の戦跡を撮影しました。日本初の従軍カメラマンとして知られるようになります。
上野彦馬の写真館「上野撮影局」とは
坂本龍馬
上野撮影局は1862年に長崎で開業しました。この写真館では、多くの幕末で活躍した志士や明治時代の高官など多くの人を撮影しました。偉人だけでなく力士や外国人などさまざまな人物の撮影もしています。最初に、坂本龍馬の立っている写真について、この写真は日本史の教科書や資料集など何回か見たことがあると思います。
この坂本龍馬の写真は上野彦馬が撮ったといわれていましたが、最近の研究では上野彦馬の弟子が撮影したということが有力となっています。次に、高杉晋作の座っている姿の写真は上野撮影局の評判を聞いて撮影したといわれています。高杉晋作が長崎を訪問した際、上野撮影局に立ち寄ったそうです。
現在の上野撮影局は
現在、上野撮影局の建物などは残されていません。長崎市内に上野撮影局のモニュメントが残されています。上野撮影局跡には当時のカメラの模型が残されています。幕末のカメラを見ながら、当時坂本龍馬や高杉晋作がどのようにして写真を撮ったのか想像することができます。上野撮影局跡前に上野彦馬宅跡の碑が残されています。上野撮影局はロシアのウラジオストクなど海外に視点を持っていたことでも有名です。
中岡慎太郎の謎の女性の写真はどこで撮影された?
中岡慎太郎の写真といえば、右手で頬杖をついて首をかしげてこぼれるような白い歯を見せて笑っている写真や女性とツーショット写真が有名です。なお、女性とツーショット写真については女性の部分が黒く塗りつぶされているものもあります。坂本龍馬と高杉晋作など武士の写真のように真面目な表情をした写真もあります。
これらの中岡の写真は上野撮影局で撮影されてなく京都で撮影されたものです。京都の「西洋伝法写真処」は女性モデルを使って、被写体の侍と組み合わせて撮影することをやっていることで有名になっていました。京都西洋伝法写真処を利用した偉人では、新選組局長の近藤勇が有名です。
幕末ライターオフィス樋口の独り言
ここでは、最初に上野彦馬に関するエピソードについて取り上げます。上野彦馬は坂本龍馬や高杉晋作などの偉人の撮影で有名になりました。上野彦馬の功績を讃えて、若手写真家の発掘と育成を目的として「上野彦馬賞九州産業大学フォトコンテスト」が九州産業大学と毎日新聞社が主催して開かれています。今後、活躍が期待される写真家が出てくるか期待されます。
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