今回は明智光秀の生誕の地について取り上げます。2020年の大河ドラマ『麒麟がくる』の主人公は明智光秀で、長谷川博己が主演となることが既に発表されています。『麒麟がくる』のホームページによれば、明智光秀が生まれたのは1528年で、美濃国の身分の低い牢人という設定になっています。生まれた年について、史料によっては1540年という説もあり、確定ではありません。この記事では、美濃国で生まれた明智光秀について、美濃国の生まれたと伝えられている場所について取り上げます。
なぜ織田信長に出会う前の明智光秀には謎が多い?
明智光秀について、織田信長に出会う前の史料がほとんどないことで有名です。江戸時代に書かれた『明智物語』など軍記物に明智光秀に関する記述はありますが、後世に書かれたもので史実とは異なるといわれていて、謎が多いといわれています。1528年に身分の低い牢人として生まれ、下剋上で美濃国の戦国大名になった斎藤道三に取り立てられますが、道三が息子の斎藤義龍に殺害されると、再び牢人としての生活を送りました。
美濃国を追われた明智光秀は13代将軍足利義輝の家臣となります。記録が残るのは足利義輝の家臣になってからです。明智光秀については、その後放浪の末に足利義輝の家臣として拾われ足軽大将となったという記録が残されていますが、足利義輝が松永久秀に暗殺され、15代将軍足利義昭は全国を逃げ回り、越前国の戦国大名朝倉義景を頼っていました。
明智光秀は足利義昭と共に牢人に近い状態ではありましたが朝倉義景の家臣となりました。当時の朝倉義景の居城は一乗谷で、一乗谷の近くに東大味があります。東大味で家族と暮らしていたという記録があり、この場所で娘の玉(後の細川ガラシャ)が生まれたといわれています。
越前に逃れた15代室町幕府の将軍足利義昭の上洛を促すために、明智光秀は細川藤孝(足利義昭の家臣)ととともに活動します。明智光秀は織田信長に上洛を促すために美濃国を尋ねます。これが光秀と信長の最初の出会いで、歴史的にメジャーな信長に仕えてからぼんやりとしていた光秀の行動が史料に記録として残るようになりました。
明智光秀の生まれた場所は?
美濃国(岐阜県)で、明智光秀の生まれたとされる場所は3箇所あります。1つめは岐阜県可児市です。明智という地名があり、明智長山城や明智荘など明智という地名があります。近くには明智家の菩提寺があり、光秀の位牌があることから明智光秀の出生地ではないかといわれています。。
2つめは、岐阜県恵那市です。恵那市に明知城があることから出生の地といわれています。近くに光秀の母の墓や産湯の井戸などがあり、地元はPRしています。しかし、記録によれば恵那市を拠点にしていたのは明知遠山氏で、明智光秀とは関係がないという説もあります。
戦国時代ライターオフィス樋口の独り言
今回は明智光秀の生まれた場所について取り上げました。明智光秀の生まれた場所は何カ所か特定されていますが、謎のまま残されている部分もあります。大河ドラマの放送に合わせて今後の研究に注目したいと思います。
最後に、明智光秀は朝倉義景の家臣で、越前国の一乗谷近くの東大味に住んでいましたが、織田信長の家臣になると一乗谷を引き払い、美濃国に移り住みます。朝倉義景が滅んだ際、明智光秀は織田信長の家臣の柴田勝家に東大味の住民を避難させるよう安堵状を出したといわれています。この時の安堵状は今も残されています。
本能寺の変で主君を裏切ったことから、光秀は非難されましたが、越前国の地元の人々に今でも慕われています。今後、明智光秀の領地と領民にも注目したいと思います。
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