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[徳川慶喜と巣鴨]おばあちゃんの原宿との意外なつながり

2023年12月7日


 

徳川慶喜(幕末)

 

今回は徳川慶喜(とくがわよしのぶ)巣鴨(すがも)との関係について取り上げます。徳川慶喜と巣鴨との間に関係があるということで、14代将軍徳川家茂(とくがわ いえもち
)
の将軍後見職に就任してから巣鴨に住むようになったと思いがちですが、違います。徳川慶喜は将軍に就任したとき二条城にいました。大政奉還(たいせいぼうかん)をしたときも二条城(にじょうじょう)にいました。この記事では、徳川慶喜の経歴を紹介してから、巣鴨に住んでいた頃の話について取り上げます。

 

 

 

監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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徳川慶喜の経歴

酒乱の徳川慶喜

 

 

徳川慶喜の逸話を紹介!先生が教えない最後の将軍の素顔』によれば、1837年に水戸藩で生まれました。父は水戸藩主の徳川斉昭(とくがわ なりあき
)
で、尊王攘夷派で有名でした。水戸藩は他の御三家とは異なり、尊皇の意識が強い藩で天皇家との結びつきが強かったといわれています。慶喜も天皇家との結びつきが強い環境で育ちました。

 

13代将軍徳川家定の将軍後継者争いに敗れ、謹慎生活を送りましたが、桜田門外の変で井伊直弼が暗殺されると政治の世界に復帰しました。将軍後見職として14代将軍徳川家茂を補佐しました。

 

14代将軍家茂が長州征伐の途中で病死すると、15代将軍に就任しました。15代将軍になると1年足らずで政権を朝廷に返上する大政奉還を行いました。大政奉還後、戊辰戦争が起こりましたが、朝廷に恭順の意思を示し、謹慎生活を送りました。謹慎生活を通して恭順の意思を示したことが認められ、徳川宗家が残ることになりました。慶喜は家督を譲り、静岡で隠居生活を送りました。

 

静岡で20年間の隠居生活を始めましたが、1897年に東京の巣鴨に移り住みました。東京に移り住むと旧江戸城内に参内して明治天皇に拝謁しました。東京に移り住んでから貴族院議員を務めましたが、議員を辞めてから隠居生活を再開しました。1913年に77歳で死亡しました。

 

 

 

徳川慶喜の巣鴨の屋敷

 

徳川慶喜は1897年から4年間貴族院議員として政治の舞台で活動しました。その4年間の議員生活において巣鴨を拠点としました。巣鴨の慶喜の屋敷跡は巣鴨駅の側にありましたが、その場所に石碑が立っています。説明板によれば、巣鴨の屋敷の庭に梅が植えられていたようです。町の人たちからは「ケイキさんの梅屋敷」と呼ばれていました。ケイキさんと慕われていたことから慶喜の人柄を知ることができます。1901年に貴族院議員を辞めると、巣鴨の屋敷から文京区小日向第六天町の高台の屋敷に移り住みました。巣鴨の屋敷近くは電車が通り過ぎていた交通の多い場所で、慶喜は騒音を嫌っていたといわれています。

 

 

幕末ライターオフィス樋口の独り言

三国志ライター オフィス樋口

 

 

今回は巣鴨と徳川慶喜との関係について取り上げました。大政奉還後、20年間の静岡での隠居生活を経て、貴族院議員として政界に復帰しました。貴族院議員だった頃に巣鴨に住んでいたことが分かりました。

 

徳川慶喜は4年間住んでいました。地元の人々からケイキ様の梅屋敷として親しまれてきましたが、慶喜本人は電車の騒音を嫌って文京区の高台の屋敷に移り住みました。慶喜は病気で死亡する1913年まで文京区の屋敷に住みました。

 

現在、文京区の屋敷の大半は国際仏教学大学院大学となっています。この大学の正門には徳川慶喜の屋敷跡を示す石碑が立っています。アクセスについては東京メトロの最寄りの駅から徒歩圏内の場所にあります。有楽町線「江戸川橋駅」から徒歩10分、東京メトロ丸ノ内線「茗荷谷駅」から徒歩12分、東京メトロ丸ノ内線・南北線「後楽園駅」から徒歩16分の場所です。

 

徳川慶喜は静岡の隠居先でケイキ様として人々から慕われていました。巣鴨の屋敷がケイキ様の梅屋敷と呼ばれていたことから、徳川慶喜は全国規模で「ケイキ様」で慕われていたのかもしれません。慶喜の人柄を知ることができます。

 

 

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オフィス樋口

自己紹介:フリーランスで予備校の講師をしています。 歴史が好きで、予備校では主に日本史を指導しています。 センター試験の点数を40点台から80点台に伸ばした実績があります。 好きな歴史人物:徳川慶喜(理由:多趣味であることが共通しているから)

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