『戊辰戦争-明治新政府軍vs旧幕府軍-』では1868年の鳥羽伏見の戦いから翌年の函館戦争までの一連の戦争について時系列で紹介しました。今回は上野戦争の経過と新政府軍が使用したアームストロング砲について取り上げます。戊辰戦争で使用された近代兵器でガトリング砲についても取り上げます。
上野戦争の経過
徳川慶喜は江戸城無血開城後、寛永寺で謹慎していました。謹慎先が寛永寺から水戸へ変わります。彰義隊は旧幕臣で構成された部隊で、徳川慶喜を擁護するのが目的でした。慶喜が謹慎先を水戸に替えますが、彰義隊は寛永寺に立てこもり続けます。寛永寺に立てこもり続けて、上野戦争は寛永寺で明治新政府軍に抵抗したことと新政府側から宣戦布告が出されたことで始まりました。
彰義隊は寛永寺の東照宮付近に本営を設置しましたが、新政府軍を指揮していた大村益次郎は寛永寺を3ヵ所から包囲する形で部隊を編成しました。上野戦争の結果、約1000人の旧幕臣が寛永寺に立てこもって明治新政府軍に抵抗しましたが、上野戦争は1日で鎮圧されました。新政府側は上野戦争で佐賀藩が保有していたアームストロング砲による砲撃を行ったことで有名です。アームストロング砲だけでなく西洋の武器を使用した新政府軍と旧幕府軍の力の差が出たといえるのかもしれません。
徳川氏と寛永寺
江戸幕府の初代徳川家康から14代将軍徳川家茂まで徳川家の墓は寛永寺にあります。寛永寺の場所は鶯谷駅より徒歩7分、上野駅より徒歩15分の交通アクセスのよい場所にあります。ただし、徳川慶喜の墓は寛永寺にはありません。『徳川慶喜の墓はどこにあるの?―谷中霊園の行き方とアクセス方法―』によれば、徳川慶喜が大政奉還をしたことで14代までと別家になることを選びました。徳川宗家の存続を図ったと考えられます。
上野戦争で用いられたアームストロング砲とは
アームストロング砲はイギリス人のウィリアム・アームストロングが1855年に開発した大砲の一種でした。アームストロング砲が開発されると、大型砲を装填する時間が大幅に短縮されたという記録が残されています。日本では上野戦争と戊辰戦争の長岡城の戦い(北越戦争)で使用されたという記録が残されています。長岡城の戦いでは河井継之助らが明治新政府軍に抵抗するためにアームストロング砲を発射して、新政府軍に多大な損害を与えました。ただし、上野戦争で用いられたアームストロング砲は佐賀藩が製造したといわれていますが、第二次世界大戦の金属類回収令により供出されたためアームストロング砲は残されていません。現在、検証が不可能となっていて実在したかどうか議論が分かれています。
幕末ライターオフィス樋口の独り言
今回は戊辰戦争の江戸城無血開城後に起こった上野戦争について取り上げました。この戦争は西洋の近代兵器であるアームストロング砲が使われたことが有名です。当時、アメリカの南北戦争が終わると、幕末の日本に売却されました。日本においてアームストロング砲は薩長がグラバーを介して注文しています。幕府もアームストロング砲を注文しましたが、拒否されたといわれています。
日本ではアームストロング砲だけでなくガトリング砲も注文していたという記録が残っています。ガトリング砲は1861年にアメリカ合衆国のリチャード・ジョーダン・ガトリングによって発明された初期の機関銃です。後に、製品化され、日本にも輸出されました。日本では3門購入したという記録が残されていて、そのうち2門が長岡藩にあります。
複数の銃身を人力またはモーターなどで回転させながら給弾・装填・発射サイクルを繰り返して連続的に発射します。『その時歴史が動いた』で河井継之助が放送されたとき、ガトリング砲を人力で回転させている姿を見た読者もいると思います。今後、長岡城の河井継之助にも注目したいと思います。
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