今回は明治の軍人・大山巌について取り上げます。2009年から3年間にわたって放送されたNHKスペシャルドラマ『坂の上の雲』で、大山巌は日露戦争の黒竜江の戦いで指揮官として登場します。大河ドラマでは、1990年の『翔ぶが如く』と2013年の『八重の桜』で登場していますが、幕末を題材にした大河ドラマでは登場しないこともあります。
この記事では、薩摩藩士時代と戊辰戦争での大山巌、陸軍軍人としての大山巌について取り上げます。この記事の後半では、大山巌と児玉源太郎との人間関係について取り上げます。
薩摩藩士時代の大山巌
大山巌は薩摩藩士大山綱昌の次男として生まれました。青年期に有馬新七ら過激派の影響を受け、寺田屋事件を起こしましたが、島津久光ら公武合体派によって鎮圧されました。有馬らは殺されましたが、大山巌は生き残り、帰国後謹慎処分となりました。
謹慎処分が解けると、大山巌は薩英戦争で砲台に配属されました。薩英戦争後、江川英龍の塾で薩摩藩の黒田清隆とともに砲術について学びました。戊辰戦争では、鳥羽伏見の戦いや会津戦争などで各地を転戦しました。会津戦争では鶴ヶ城で籠城していた山本(新島)八重の狙撃によって右太ももを怪我しました。鶴ヶ城には山本八重だけでなく、後妻となる山川捨松もいました。
明治時代の大山巌
戊辰戦争が終わると、大山巌はヨーロッパに渡って戦争の視察をしました。ヨーロッパの視察を終えて帰国すると、日本国内で相次いで怒っていた不平士族の反乱を鎮圧しました。最後の不平士族の反乱である西南戦争では、親戚筋の西郷隆盛を相手に戦いました。大山はこのことを気にして鹿児島に帰ることはなかったといわれています。
日清戦争では、陸軍大将として指揮をとりました。日露戦争でも陸軍大将として満州軍曹司令官を務め、ロシアの陸軍に勝利しました。日本海海戦で東郷平八郎の率いる日本海軍がロシアのバルチック艦隊を破ったことにより、陸軍と海軍において日本の勝利に大きく貢献することができました。
大山巌の名言
ここでは大山巌の名言について取り上げます。大山巌といえば、NHKスペシャルドラマ『坂の上の雲』で、昼寝から起きてくると殺気だった雰囲気がガラッと変わったというシーンを思い出す人がいると思います。
このシーンについて、「児玉さん、今日もどこかで戦(ゆっさ)がごわすか」の惚けた言葉ですが、言葉で雰囲気が一気に明るくなったという点で名言だといえるのかもしれません。
大山巌と児玉源太郎―理想の上司と部下―
日本は日露戦争でロシアに勝利しますが、日本の勝利には児玉源太郎が欠かせないといわれています。児玉源太郎は長州藩出身で、陸軍の奉天会戦でロシアに勝利すると、今後ロシアが物資を補給すると日本が負けると考え、日本にいた陸軍と海軍に対して講和を進めるよう指示しました。結果、陸軍と海軍が勝利した直後という良いタイミングでロシアとの講話条約に成功しました。
大山は児玉源太郎の才能を見込んで、全幅の信頼を寄せていました。大山と児玉は互いにすべてを知り尽くす間柄で、相思相愛の関係が日露戦争の勝利に導いたのかもしれません。日露戦争では、児玉がすべて作戦を立てて大山が了承していました。
幕末ライターオフィス樋口の独り言
今回は大山巌について取り上げました。大山巌といえば日本の国歌「君が代」に曲をつけたことで有名です。大山は薩摩琵琶の「蓬莱山」にある君が代を歌詞として選びました。歌詞は決まりましたが、曲は海外の軍隊に依頼したようです。海外の軍隊による編曲は評判がよくなく、当時の宮内省が1880年に曲をつけて今の君が代になったといわれています。
おわりに、陸軍の大山巌と児玉源太郎の関係のように海軍の東郷平八郎と秋山真之との関係にも注目したいと思います。
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