今回は中岡慎太郎の陸援隊について取り上げます。この記事では中岡慎太郎について取り上げるとともに、中岡慎太郎が陸援隊を結成してから中岡暗殺後に解散に至るまでの経緯について取り上げます。
中岡慎太郎とは?
佐久間象山
中岡慎太郎は1833年に土佐藩の大庄屋・中岡小傳次と後妻ウシの長男として生まれました。1861年に武市瑞山が結成した土佐勤皇党に加盟して、土佐藩の尊王攘夷派として活動を始めます。土佐藩内で尊王攘夷派の弾圧が始まると、長州藩に亡命しました。亡命先の長州藩で過激な尊皇攘夷運動に加わります。
中岡は尊皇攘夷運動に加わっていましたが、1862年に佐久間象山を訪れます。佐久間象山から西洋の技術や知識を学んだことや亀山社中で西洋の技術にふれると、中岡は尊皇攘夷から西洋かぶれになったと言われています。1867年に陸援隊を結成し、尊皇攘夷運動に尽力しました。同年に坂本龍馬とともに京都河原町の近江屋で暗殺されました。
中岡慎太郎が結成した陸援隊とは?
中岡慎太郎は1867年に陸援隊を結成しました。陸援隊は徳川幕府を武力倒幕のために結成された組織で、尊皇攘夷の思想を持つ脱藩浪士たちが集められました。薩摩藩から派遣された洋式軍学者の鈴木武五郎が派遣されました。当初、70人以上の浪士たちが集められ、浪士たちは洋式訓練を受けています。
中岡慎太郎暗殺後の陸援隊
1867年に陸援隊を結成した同じ年に坂本龍馬とともに暗殺されました。中岡が暗殺されると陸援隊は中心人物を失い、求心力を失いましたが、すぐに立て直します。田中顕助ら結成当時の幹部が中岡の後を引き継いだため、一時的に失った求心力を回復させました。大政奉還後に陸援隊は高野山に向かい、総数が約1000になるまで兵を集めることに成功します。
戊辰戦争には直接参加していませんが、近畿地方の幕府寄りの勢力を牽制することに成功しました。鳥羽伏見の戦いの後、高野山から下山すると京都に入ります。京都に入ると陸援隊は解散し陸援隊の隊士は明治新政府軍の御親兵として戊辰戦争に加わりました。
幕末ライターオフィス樋口の独り言
今回は中岡慎太郎が組織した陸援隊について取り上げました。陸援隊は大政奉還直前から鳥羽伏見の戦い直後までの短い間しか活動していなかったことや御親兵として加わったことについてはあまり知られていません。坂本龍馬が海援隊で、中岡慎太郎が陸援隊ということで、両者を比較してしまいがちになるかもしれません。
海援隊は日本初の株式会社で、貿易で利潤を出していました。一方で、陸援隊は尊王攘夷派で倒幕運動をするための組織です。海援隊と陸援隊の性質がまったく別物であることが分かりました。中岡慎太郎については写真に関するエピソードが有名です。中岡の写真については真面目な写真がありますが、右手で頬杖をついて首をかしげてこぼれるような白い歯を見せて笑っている写真もあります。中岡の隣に女性がいるツーショット写真もあります。中岡の隣の女性が塗りつぶされた写真もありますが、塗りつぶされていない写真もあります。
中岡が撮影したのは京都の「西洋伝法写真処」であると考えられます。当時、女性モデルを使って、被写体の侍と組み合わせて撮影するという斬新なやり方で有名になっていました。中岡慎太郎だけでなく新選組の近藤勇も利用していたといわれています。隣の女性については不明な点が残っていて解決されていませんが、中岡慎太郎の写真の隣にいる女性については写真店のモデルである可能性もあります。
▼こちらもどうぞ