西夏(1038年~1227年)は現在の中国の甘粛省・寧夏回族自治区に建国されていた王朝です。通称タングート族と呼ばれています。当時、中国を支配していた北宋(960年~1127年)と対立関係にありました。
現在の世界史の授業では少し学習する程度で、あまり印象に残らない単語です。私が高校時代に学習した時も1度聞いたら、もう2度と習いませんでした。さて、今回は高校世界史で唯一、学習する李元昊という人物について解説致します。
父のやり方に反対する
李元昊は北宋第3代皇帝真宗の咸平6年(1003年)に生まれました。生まれつき性質は雄々しく、きかぬ気が強く、計略に長じていました。また、教養もあり仏教・法律・語学に長けていました。生まれつきの天才肌のようです。
祖父は李継遷、父は李徳明と言います。祖父の李継遷は北宋に対して何度も反乱を起こしており、北宋は対応に手を焼いていました。しかし、度重なる戦で李継遷は負傷して傷がもとで亡くなりました。李元昊の父の李徳明は、北宋に対して反乱を起こさずに恭順の態度をとりました。おかげで、タングート族は栄えましたが李徳明の息子の李元昊はこれを不満に思っていました。
一方、父の李徳明も息子の態度を戒めました。(翻訳は現代の人に分かりやすくしています)「我らタングート族は戦争で疲れている。だが、今はこうやって立派な衣服を着て過ごすことができる。これもみんな中国のおかげだ」
李元昊は父のへりくだった態度にあきれて言い返しました。
「父上、タングート族は毛皮を衣服として牧畜生活をしているのです。英雄として生まれた以上は王覇の大業を成し遂げるべきです。立派な衣服を着ることに何の必要があるのですか?」
李徳明の死後に、李元昊は父の後を継いで独立しました。
西夏の建国
北宋第4代皇帝仁宗の明道元年(1032年)に李元昊はタングート族は中国から独立する決意を固めます。元号も定めて、「顕道」にしました。さらに、軍事・官制・文字も制定しました。
李元昊は最初にウイグル族を打ち破り交通の要所を確保しました。そして、仁宗の宝元元年(1038年)に李元晃は皇帝に即位しました。国号は「大夏」としました。中国の夏王朝と区別するため、現在は「西夏」呼ばれています。
西夏戦争
李元昊の即位を聞いた北宋は経済封鎖を行い、これまでの爵位を全て取り上げました。これを耳にした李元昊は憤慨して次のような言葉を残しています。(翻訳は現代の人に分かりやすくしています)
「タングートはタングート、中国は中国だ!タングートが自ら皇帝や王と称しようが、宋の知ったことではない。他人事に干渉するにもほどがある!」
これこそナショナリズムを持った立派な人物です。この後、すぐに北宋と西夏の間で戦争が始まりました。西夏の騎馬隊の前に北宋は次々と敗北しました。北宋は建国以来、平和が続いたので戦争に慣れていなかったのです。
慶暦の和約
しかし最初は勝利をしていた西夏でしたが、時が経過するにつれて弱体化していきました。北宋は西夏に対して経済封鎖をしていたので、物資が乏しくなったのです。また、北宋は得意の籠城戦に持ち込んだので、西夏の得意としている騎馬戦が思うように出来なくなりました。
仁宗の慶暦4年(1044年)、7年間戦った末に両国が出した結論は和睦でした。この和睦を〝慶暦の和約〟と言います。交渉の結果、北宋は西夏に対して毎年貢物を差し出すことになりました。戦争に勝利は出来ませんでしたが、李元昊は外交面において勝利を勝ち取ることに成功しました。
晩年の悲劇
ところが、名君の李元昊も遂に悲劇が訪れます。戦争後は酒に溺れてしまい、皇后や皇太子を廃したので国内の治安は乱れました。その結果、仁宗の慶暦8年(1048年)に廃された皇太子により殺されました。
46歳の若さでした。
宋代史ライター 晃の独り言
こうして見ると、李元昊の性格は最初はやる気満々ですが、ある程度行うと萎えてしまうタイプです。この点は後唐(923年~936年)の荘宗とよく似ています。どんな仕事も最後まで気を抜いてはいけませんね(笑)
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