秦檜は中国において悪名高き人物として知られています。愛国の武人岳飛を殺しただけではなく、金軍と屈辱的な和議を結んだことで有名です。また、秦檜は複雑な南宋政治をほぼ、1人で握っていたことから、南宋の「専権宰相」の1人に数えられています。ところで秦檜は中国では有名なのですが、日本ではあまり知られていません。そこで今回は秦檜について解説します。
実務系の官僚として歩む
秦檜は江寧(江蘇省南京市)の出身であり、北宋の元祐5年(1090年)に世に生まれました。脚が長かったので「秦長脚」と呼ばれていました。特技は宴会の幹事。今の世でしたら、大学生の就職活動の自己PRに使えそうです。政和5年(1115年)、26歳で科挙(官吏登用試験)に合格しました。地方職を経験後に、中央では職務は太学学正を務めていました。今で例えるなら大学職員です。
当時の宋代の学生は政治にかこつけて、デモを起こしていたので秦檜の仕事は非常に大変でした。さて、靖康2年(1127年)北宋が金軍により滅ぼされる〝靖康の変〟が起きました。この時、秦檜は後年の彼から想像もつかない行動をとっています。
金軍の怒りに触れて拉致される
金軍はこの時、中国内地の統治のために張邦昌という官僚に皇帝になることを頼みました。だが、これに断固反対したのが秦檜でした。秦檜は反対の文書まで執筆して金軍に送り付けたのです。すごい度胸です。もしかしたら、これが本当の秦檜の姿なのかもしれません。激怒した金軍は秦檜と彼の妻の王氏を逮捕して、本国まで拉致しました。その後の秦檜の消息は、しばらく分かりません。
疑惑の帰還
南宋の建炎4年(1130年)に、いきなり秦檜は戻ってきました。それも1人ではなく、妻の王氏と召使いも無事に連れて帰ったのです。秦檜の証言によると、見張りを殺して帰ったと言うのです。当然、こんな証言は誰も信じません。金軍のスパイ疑惑はぬぐえませんでした。しかし、秦檜の昔馴染みの范宗尹がみんなを説得したので、どうにか南宋初代皇帝の高宗と対面しました。すると秦檜は驚きのことを主張しました。
和議を主張
秦檜は高宗に対して金軍との和議を主張しました。かつて金軍に強気な態度をとった秦檜の姿はどこにもありません。一説によると、金軍の武人と密約を交わしたと言われていますが、私は後世の俗説と考えています。おそらく長きにわたる抑留生活が、彼の人生観を変えたのだと思います。高宗は秦檜の意見に賛成しました。高宗も戦争継続は望んでいなかったので、秦檜と共同で和議の締結に当たりました。
岳飛の殺害~和議の締結
その後秦檜は宰相を失脚したり、返り咲いたりと繰り返しましたが、金軍との和議は着実に整っていきました。ところが秦檜にとって邪魔な人がいました。岳飛でした。岳飛は農民から成りあがった武人であり、金軍だけでなく各地の反乱鎮圧にも貢献しました。岳飛を放っておくと、必ず災いの種になると秦檜は思いました。そこで秦檜は岳飛と仲の悪い張俊という武人と手を組んで、岳飛の罪をでっち上げて、彼を投獄して殺しました。和議は紹興12年(1142年)に締結されました。
内容は以下の通りです。
(1)領土は北を金軍が支配、南を南宋が支配する
(2)立場は金軍が上、南宋が下
(3)南宋は毎年、金軍にお金を支払う
これは南宋の人からすれば屈辱的な内容であり、秦檜が後世「売国奴」と呼ばれた理由です。
その後の秦檜
秦檜は岳飛の死後も政治で専権を振るって、使える部下は思う存分使いました。しかし彼にとっては、「使える部下=信頼関係」という意味ではありません。ただのコマにすぎないのです。用が済んだら終わりです。秦檜はそのようなことをずっと続けました。まさに恐怖政治でした。しかし、こんな人ほど長生きするものです。秦檜は紹興25年(1155年)に66歳の生涯を閉じました。彼が死んだ時の皇帝高宗のセリフがあります。
「ようやく靴の中の針が取れた気分だ・・・・・・」よほど恐ろしい人物だったのでしょうね。
宋代史ライター 晃の独り言
秦檜が和議を結んだのは、当時としてはやむを得ない手段でした。あのまま戦争を続けていたら、中国は乱世に突入していたはずです。彼はそれを回避したので、立派な政治家だと思います。だから、僕は彼を非難する気にはなれません。
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