ネット上では、鹿鳴館の華といわれた戸田極子、ワシントン社交界・駐米日本公使館の華といわれた陸奥亮子とともに美貌から評判になった人物です。この2人以外では、坂本龍馬の妻お龍、大山巌の妻大山捨松、木戸松子も美人として有名です。こ
の記事の前半では桂小五郎と木戸松子についてそれぞれ経歴について取り上げます。後半では結婚に至るまでの経緯を取り上げます。
桂小五郎(木戸孝允)とは?
1833年、桂小五郎は長州藩に生まれました。桂小五郎は数多く名字と名前を変えた人物で有名です。特に命を狙われていた幕末には10種類の名前を使っていました。桂小五郎から様々な名前を経て木戸孝允になったのは36歳頃で、亡くなるまで名前を変えることはありませんでした。
幕末の長州藩士時代において、尊王攘夷派の志士として戊辰戦争で活躍しました。明治政府では総裁局顧問専任や参議を務め、岩倉使節団にも同行しました。1877年に西南戦争が勃発し、鎮めるために京都に出張しましたが、出張先の京都で病死しました。
木戸松子とはどんな人?
木戸松子は1843年に生まれました。芸者で幾松として知られた女性で、明治時代に木戸孝允と結婚し、木戸松子と名乗りました。幼少期は父が若狭小浜藩士であるといわれています。京に移り住み、芸妓となりました。
芸妓になると幾松と名乗りました。桂小五郎は長州藩士として京にいた頃、通い始めました。桂小五郎は幾松を身請けしようと考えましたが、既に贔屓にしていた客がいました。小五郎は伊藤博文に贔屓にしていた客を刀で脅して身を引かせました。このことがきっかけで交際するようになりました。
幾松は幕府や新選組から追われるようになった桂小五郎の逃走の手助けをしました。小五郎を匿うだけでなく、乞食に変装していた小五郎に食べ物も持っていきました。幾松は新選組局長近藤勇から桂小五郎の居場所を尋問されましたが、武士顔負けの度胸で尋問を切り抜けることにも成功しています。
木戸孝允は1877年京都で病死しました。孝允の死後、松子は京都に住みましたが、1886年に43歳で亡くなりました。
木戸孝允と幾松は結婚へ
明治新政府で、木戸孝允は参議となり、岩倉使節団にも同行しました。私生活では正式に幾松と結婚し、東京で暮らしました。
しかし、木戸孝允と幾松の身分差があったため結婚が容易ではありませんでした。いったん、長州藩士の養子となってから木戸孝允と結婚しました。結婚した当時、木戸孝允は30歳で、幾松は20歳でした。幾松は結婚してから木戸松子と名乗るようになりました。
幕末ライターオフィス樋口の独り言
今回は桂小五郎(後の木戸孝允)の妻・木戸松子について取り上げました。これまでの幕末を題材にした大河ドラマでは、桂小五郎が通っていた芸妓として幾松が登場することが多いので、読者の中では知られているかもしれません。
幾松は桂小五郎を支えた人物として有名です。幾松の支えの甲斐があり、桂小五郎は生き延びて長州に戻ることができました。長州藩の尊王攘夷派のリーダーとし、倒幕に向けて活躍しました。
明治時代に結婚すると木戸松子と名乗りますが、明治政府になってから夫の木戸孝允を支え続けました。木戸孝允と松子の間には子どもがいませんでした。養子をとっています。養子の長男として木戸幸一がいます。
木戸幸一は戦前政治家として活躍し、内大臣などを歴任しました。当時の昭和天皇から信頼される人物として評価されるようになり、東条英機を内閣総理大臣に推薦するなど影響力は増していきました。戦後、東京裁判で有罪判決を受け、終身刑となりましたが、仮釈放されました今後、木戸孝允の子孫について、木戸幸一以外の人にも注目したいと思います。
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