NHK大河ドラマ「光る君へ」で藤原道長の妾妻となるのが源明子です。正室の倫子に負けず劣らず有能な子女を残した明子ですが、父が謀反人として流罪にあった影響から抜けられず、その生涯は不遇なものになっていきます。そして皮肉な事に明子の子が80年にも及んだ藤原摂関家の全盛期を終わらせてしまうのです。
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父は醍醐天皇の第十皇子、源高明
源明子は康保2年(965年)に左大臣、源高明の娘として誕生します。母は藤原北家九条流の右大臣、藤原師輔の娘の愛宮です。父、高明は醍醐天皇の第十皇子で七歳の時に臣籍降下して源姓を賜った一世源氏で、身分ばかりではなく教養もあり、朝廷の儀礼に詳しいなど非の打ちどころがないエリートでした。さらには当時の朝廷を牛耳っていた藤原師輔の娘の愛宮を正室に迎えた上、高明の正室の愛宮は皇后藤原安子と姉妹関係でした。高明は皇后と藤原摂関家と関係が深い、この上ない有利な状況であり、このままなら明子は、しかるべき天皇か藤原摂関家の正室に迎えられるはずでした。
安和の変で父、高明が失脚
しかし、天徳4年(960年)妻の父藤原師輔が死去、4年後には妻の姉だった皇后安子が死にます。後ろ盾を失った高明の立場は不安定になりますが昇進は止まらず、康保3年(967年)右大臣兼左近衛大将に任ぜられ、時の左大臣藤原実頼と共に太政官のトップに並び立ちます。さらに高明は娘を皇太子候補として有力な為平親王に嫁がせました。康保4年(968年)村上天皇が崩御し、皇太子の冷泉天皇が即位すると高明は左大臣に昇進し太政官の頂点に立ちました。このことは藤原摂関家へ恐怖と猜疑心を与え、安和2年(969年)高明は藤原摂関家の陰謀により謀反の疑いを掛けられ大宰府に流罪とされます。娘の明子は、父の叔父盛明親王の養女となりました。
東三条院詮子の庇護を受け藤原道長の妻妾となる
父が罪人となり、不幸のどん底に叩き落とされた明子でしたが、円融天皇の妃である東三条院詮子は、不憫な明子を庇護し様々な援助を与えました。ただ、東三条院が無条件に同情心だけで庇護したわけではありません。当時、東三条院の父である藤原高家は寛和の変で花山天皇を騙して出家に追い込み、代わりに東三条院が産んだ孫である一条天皇を即位させ摂政に就任していました。ところが兼家の地位は右大臣止まりであり、その上席には宇多天皇の孫にあたる左大臣、源雅信がいて、兼家とは良好ではない関係でした。そこで東三条院は自分の弟である藤原道長に、源雅信の娘、倫子との結婚を勧め、同時に同じく醍醐天皇の孫にあたる源明子とも道長を結婚させようとしたのです。東三条院の計画は成功し、道長は源倫子を正室に迎えた翌年、源明子を妻妾として迎えました。
息子達の昇進に差をつけられる
藤原道長と結婚した明子は高松殿と呼ばれ、頼宗、顕信、能信、寛子、尊子、長家と多くの子ども達に恵まれます。しかし、醍醐天皇の孫娘という威光も、父が安和の変で失脚した事により、明子は倫子との戦いに敗れる事になりました。その影響は明子だけではなく、明子が産んだ子ども達にも及びます。正室の倫子の娘が天皇の妃となり、息子が道長の後継者として高い地位に登っていくのに比較し、明子の子ども達は露骨に差をつけられ、娘たちは天皇の妃として入内する事がなく、息子達で最も出世したのは長男の頼宗の右大臣が最高で、左大臣にまで昇進する者は出ませんでした。
明子の三男、能信が摂関政治を終わらせる
明子の産んだ子女の出世は、正室の倫子の産んだ子供たちに比較して露骨に遅れましたが、それでも、頼宗や顕信は、異母兄弟である藤原頼通と協調して出世を図ろうとしました。ところが三男の能信だけはそれを拒絶、頼通と口論するなどして道長の怒りを買っています。しかし、能信は道長の引きもあり権大納言まで昇進。能信は頼通や教通を憎む事甚だしく、藤原氏の娘を生母に持たず、摂関家に冷遇された尊仁親王と生母陽明門院を自分の身の上に重ねて庇護します。こうして藤原道長の末娘が産んだ後冷泉天皇が皇子を残せずに崩御すると、尊仁親王が後三条天皇として即位。摂関家に頼らず、天皇親政の政治を目指し、これが院政へと繋がり、藤原摂関家の没落に繋がりました。
永承4年(1049年)84歳で大往生
源明子は、醍醐天皇の孫娘という高い家柄を誇りながら、常に安和の変の影がつきまとい、ついに、正室の源倫子を上回る寵愛を得る事なく、永承4年(1049年)84歳で大往生しました。安和の変の首謀者は藤原摂関家だと考えられていますが、その源高明の孫にあたる藤原能信が、間接的に藤原摂関家の政治を終わらせ院政への道を開くとは不思議なものです。
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