『列子』は「朝三暮四」や「杞憂」のお話が載っている道家の思想書です。道家というと、老荘思想とか仙人とかのイメージがありますよね。『列子』にはそのイメージに違わぬぶっ飛んだ逸話がたくさん載っています。不思議な逸話を通して道教の思想を垣間見ることができるようになっております。本日は、水に入っても溺れず火に飛び込んでも火傷ひとつしなかった人の話をご紹介いたします。
うわさを真に受けて貴公子の食客に
この話の主人公は晋の国の商丘開という人です。商丘開はとても貧乏で、飢えと寒さに苦しんでいました。その頃、晋の名門・范氏の子華という人物が権勢を誇っており、彼の目配せ一つである者は爵位を得、ある者は処刑されるというほどでした。商丘開はこんなうわさを聞きました。
「子華の権勢は生きている者を死なせ、死んでいる者を生き返らせるほど。富貴の者を貧しくし、貧しい者を富貴にかえるほどである」商丘開はさっそく旅支度を調え、子華の屋敷へ行き食客になりました。
からかいの標的になり、ビルの上からダイブ
子華の食客といえば名門の立派な人たちばかり。そんな中に、真っ黒に日焼けしてみすぼらしい姿をしたおじいさんがやってきたものですから、他の食客たちは商丘開を小馬鹿にして、叩いたり押したり騙したり、ありとあらゆるいたずらをして商丘開をからかいました。商丘開は全く腹を立てる様子もなく、他の食客たちはいたずらの手段も尽き、からかい疲れてしまいました。
ところで、子華は日頃から侠客たちにガチバトルをさせて、怪我をしても止めずに面白がって眺めるというイカれた趣味の持ち主。ある日、商丘開たちをともなって高楼の上に登り、こんなことを言いました。「ここから飛び降りた者には百金を与えよう」他の食客たちはダチョウ倶楽部のネタの要領で「ぼくが飛びます」「いやいや僕が」と戯れ合っています。そんな中、商丘開はいともたやすく、ぽん、と飛び降りました。その姿はあたかも飛び立つ鳥のごとく……商丘開の運命やいかに!?
飛び降りても無傷。河の中もへっちゃら
商丘開は無傷でした。みんなは偶然だろうと思い、こんどは大きな河の湾曲部の深くなっているところを指しながら商丘開にこう言いました。「あそこに宝玉が沈んでいるんだ。潜っていけば取れるはずだ」河川で泳ぐのは危ないです。まして、大きな河の湾曲部とあれば、水の流れは速くて複雑なはず。
その深い底まで潜って行かせるとは、これは「未必の故意(死んでもいいと思っている)」ですね。商丘開は、ウホッ、お宝! といわんばかりの勢いで水に飛び込むと、しばらくして本当に宝玉を持って水から出てきました。さてはこの人、ただ者ではない……?そう思った子華は、商丘開の待遇を改め、いい食事と衣裳を与えるようになりました。
火事の現場で活躍
後日、范氏の家の蔵が大火事になりました。子華が「火の中に入って錦を取ってくる者があれば、持ってきた量に応じて褒美を与える」と言うと、商丘開は気軽に火の中に入って行きました。錦を取ってきては火に入り、入ってはまた錦を持って戻ってくる。これを何度もくりかえしましたが、商丘開は火傷ひとつしないどころか、すすで汚れることすらありませんでした。
これはまさしく道を会得した人だ! そう思った食客たちは商丘開を拝み、謝罪し始めました。「あなた様が道を会得した神人であられるとは知らず、あざけり辱めてしまいました。見る目のない愚か者とお思いになったことでしょう。どうか道をご教示下さい」
一念岩をも通す
みんなに拝まれた商丘開はびっくり仰天。このように答えました。「道なんて何も知りません。どうしてそうなったのかも分かりません。心当たりといえば……以前、こんな噂を聞きました。子華様は生きている者を死なせ、死んでいる者を生き返らせるほど。富貴の者を貧しくし、貧しい者を富貴にかえるほどであると。
私はその話を信じていただけです。ひたすら皆様の言うことを信じて、自分がその通りに実践できないことだけを恐れてがむしゃらにやってきただけです」そうして、こう言いました。「きょう皆様が私を騙していたことを知ってしまったので、これからはもう恐ろしくて水や火に近づくことすらできません」このことがあって以来、子華の食客たちは道路で物乞いや馬医者のような身分の低い人たちに会っても辱めることなく、きちんと馬車をおりてあいさつするようになったという、ちょっといい話。
孔子の解説
この話の最後に、孔子の弟子の宰我がこの出来事を孔子に伝えたとあり、孔子が宰我に語った解説が書かれています。「知らないのかい。信念のある人は物を感応させることができるのさ。天地を動かし、鬼神を感動させ、上下四方をおもうがままに行っても何に妨げられることもない。危険を冒し水や火に飛び込むくらい序の口だよ。商丘開は虚偽を信じ込んだだけでも物を従わせることができたのだから、まことのことを信じた場合にどうなるかは言うまでもないよね。よく覚えておくといいよ」
お、おう……
三国志ライター よかミカンの独り言
考え方次第で物理原則を超越することができるという道教的思想を示す逸話ですね。道教の説話で、孔子を引っ張り出してきて何かしゃべらせてまとめるというパターンはよくあります。孔子が道教的思想に接して、こいつは一本とられちまったと思ってしょんぼりする場合もあれば、自分もやればできるんだけどやらないだけなのさ、と聖人然としたまま終わる場合もあります。
いずれにしても、道教側からの、孔子も一目置くほどの教義なのさ、と言いたいがための演出です。今日ご紹介したお話の孔子のせりふはおかしいですね。『論語』の中で「天、予(われ)を喪(ほろ)ぼせり」と言っている孔子が「信念のある人は物を感応させることができるのさ」なんて言うわけありません。
そもそも、このお話自体、道教を学べば何でもできる的なご都合主義のようで、非現実的で子供だましのような説話に見えてしまいます。『列子』の中にはこのような通俗的すぎる説話もあれば、ガチ哲学を論じてあるような箇所もあり、統一性がありません。道教の様々な様相を見ることのできる奇書といえるでしょう。
参考文献: 小林勝人訳注 『列子』 岩波文庫 1987年1月29日
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