西郷隆盛と言えば、歴史ファンの中でもっとも人気のある人物のうちの1人です。
今回は、西郷隆盛を人柄と学者としての視点から取り上げます。最初に西郷の座右の銘である「敬天愛人」を基に人柄について取り上げます。次に、西郷が薩摩藩士だった頃に勉強した学問を紹介します。学問として、陽明学・武士道を取り上げます。西郷や薩摩藩主だった島津斉彬が目指した政治体制を紹介します。
西郷隆盛の座右の銘「敬天愛人」
西郷隆盛の座右の銘は「敬天愛人」です。敬天愛人とは天を敬い、人を愛することを意味します。
2018年の大河ドラマ『西郷どん』で、西郷が身分に関係なく人々への慈愛を持って接している姿が描かれています。義を重んじる行動は西郷隆盛の武士道につながっていると言えます。西郷は清貧に甘んじていました。下級藩士出身で貧しかったことや2度の遠島の処分を受けて質素な生活を強いられました。この質素な生活をしていたことから、困った人を見たら自らを犠牲にして助けていた姿も西郷どんで見ることができます。
西郷隆盛の学んだ陽明学
ここでは、西郷隆盛が取り組んだ学問について紹介します。薩摩藩にいた頃、陽明学を学びました。陽明学とは明の時代に王陽明が広めた儒学のことを言います。江戸時代に中江藤樹が日本に持ち込みました。
江戸時代は幕府が朱子学を奨励したことにより陽明学が台頭することはありませんでしたが、幕末になると、西郷隆盛だけでなく大塩平八郎や佐久間象山など著名な武士にも広まります。陽明学の考えは知行合一で、知ることと行うことはともに心から発する作用であるという考えです。言い換えると、知ることは行為の始めであり、行為は知ることの完成という意味です。大河ドラマ『西郷どん』では、困っている人を助ける姿が知行合一を実践していることを表しているのかもしれません。
島津斉彬らが目指した共和政治
西郷隆盛は島津斉彬に取り立てられると、13代徳川家定の後継として14代将軍を一橋(徳川)慶喜にするための運動を始めました。結果、井伊直弼が推した徳川家茂(当時、慶福)が14代将軍になりました。
14代将軍が徳川慶喜になったらどのような政治体制になったのでしょうか。これまでの幕藩体制では譜代大名のみが政治に関わっていましたが、譜代大名だけでなく幕末に活躍した幕末の四賢侯(松平慶永、山内豊信、島津斉彬、伊達宗城)・外様大名・朝廷を政治に参加させます。日本を一つにまとめて、議会を作り、日本の代表者は選挙で決めるという政治体制です。島津斉彬ら幕末の四賢侯は一橋慶喜を日本国の当主とした共和政治を目指していました。
西郷隆盛は共和政治をどこで学んだのか
西郷隆盛は島津斉彬のコネで福井藩士の橋本左内や横井小楠と交流します。西郷隆盛は共和政治を福井藩士の儒学者・横井小楠から学んだと考えられています。大河ドラマ『西郷どん』で横井小楠が登場していませんが、横井小楠が福井藩にいた頃、福井藩が交易で栄えていたことが知られていました。坂本龍馬は横井小楠の政治を高く評価し、横井の教えを受けていたと言われています。
幕末ライターオフィス樋口の独り言
今回は西郷隆盛の政治思想について取り上げました。最初に、横井小楠について取り上げます。横井小楠は明治新政府の参与として務めましたが、1869年1月5日の午後に京都御所近くで暗殺されました。
西郷隆盛は明治政府の参与として務めます。明治政府では岩倉使節団に帯同せず、江藤新平らと国内に留まります。国内では廃刀令によって士族(武士)の特権が奪われました。士族の不満が高まり、朝鮮半島を武力で開国させる征韓論が高まります。
岩倉使節団が帰国すると、西郷らは征韓論を主張しますが、欧米から帰国した大久保利通らは政治体制が脆弱すぎるとして反対します。結果、征韓論は否決され、西郷ら征韓論派は明治政府を去ることになりました。西郷隆盛は倒幕に参加した武士たちに恩賞をほとんど与えずに特権を奪った明治政府を批判します。板垣退助は言論で明治政府を批判しますが、西郷隆盛は不平士族に担ぎ出され、西南戦争で明治政府に抵抗しました。
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