小栗忠順は幕末にフランスの支援を受けて軍事力を強化することに成功しました。天才として注目されていますが、天才であったがゆえに明治新政府に恐れられました。小栗を逮捕後、取り調べがほとんどないまま処刑されたという悲劇の人物としても知られています。この記事の前半では小栗が貪欲に海外の知識を得ようとしたきっかけや富国強兵で実践したことについて取り上げます。
後半では新政府軍が江戸城に向けて迫っている中、撃滅作戦を提案しますが、採用されませんでした。撃滅作戦を実行すれば歴史はどのように変わったのかということを取り上げます。
知らないことを貪欲に吸収しようとした小栗
『小栗忠順にも弱点があった?策におぼれた小栗に訪れた結末とは?』によれば、小栗が見たものしか信じなかった要因として、敵を知るには敵の懐に進めという格言の実践と外国奉行時代に外国人との交渉経験が豊富だったことを挙げました。
しかし、小栗の知らないことを貪欲に吸収しようとした動機として言及していませんでした。ここでは、小栗が貪欲に知識を吸収するきっかけについて紹介します。小栗は開国派だった安積艮斎の塾で学びました。安積の塾で小栗は海外貿易の必要性を学びました。小栗は幕府の外国奉行の役人に任命されました。
安積は諸外国の事情に明るく、幕府の最高学府・昌平黌の教授を務めていること、阿部正弘や堀田正睦など開国派が老中であったことから海外に対する問題意識が高かったと考えられます。
富国強兵を実践しようとした小栗
富国強兵を実践するきっかけはポーハタン号で渡米したことであると考えられます。『小栗忠順にも弱点があった?策におぼれた小栗に訪れた結末とは?』では、フィラデルフィアでは、日本国内の経済が混乱していたため交換比率の見直しの交渉をしました。小栗は小判と金貨の分析実験をもとに主張の正しさを証明しましたが、比率の改定には至りませんでした。
『小栗忠順とレオンロッシュ。最後までフランスが幕府を支援していた理由とは?』によれば、横須賀に製鉄所を建設する際、フランス人技術者を中心に招聘しました。フランスの支援を得られたので、軍事力強化に力を入れます。具体的には、海軍力強化のため44隻の艦船と大砲や銃を大量に購入しています。
実践されなかった小栗の「官軍撃滅計画」
大政奉還後、新政府軍と旧幕府軍との間で鳥羽伏見の戦いが起こりました。この戦いで旧幕府軍は負け、徳川慶喜は恭順策を取りました。一方で、小栗忠順・榎本武揚らは徹底抗戦を主張しました。新政府軍が箱根に入ったら迎撃し、榎本武揚の艦隊を駿河湾に突入させて相手の後続を砲撃で足止めし、箱根で孤立した相手を殲滅するという作戦でした。
もし、この作戦が実行されていたらどのように歴史が変わっていたのでしょうか。新政府軍にいた大村益次郎はこの作戦を聞いて、実行されれば新政府軍は全滅していただろうと言っています。
幕府を再興する!小栗の深遠な計画があだとなる
小栗忠順は徳川慶喜に対して徹底抗戦を主張しますが、御役御免となり、幕府から追放されました。『小栗忠順にも弱点があった?策におぼれた小栗に訪れた結末とは?』によれば、小栗は栃木県に退きます。小栗の知行地は会津・越後にも通じていて、戦争の際、要害となる場所でした。
小栗は栃木県に大砲一門・鉄砲二十挺および弾薬を運びこみ、600両を投じて居館を新築しました。現地の農民を徴発して訓練したと言われています。徳川の財産を欲しがっていた新政府軍は徳川埋蔵金に注目します。江戸城無血開城で金庫を見たら何もなかったので、小栗が武器の運び込みや農民の訓練をしていたことから埋蔵金を持ち出したのではないかと疑います。結果、小栗は逮捕されますが、取り調べがほとんどないまま処刑されました。
幕末ライターオフィス樋口の独り言
今回は小栗忠順の貪欲に知識を得ようとする姿勢と幕府の再興計画について取り上げました。もし、小栗が明治新政府に加わっていたら歴史がどのように変わったのか気になります。
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