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土方歳三の運命の日!最後の戦いの[真実]を解明

2024年5月25日


新選組の土方歳三

 

土方歳三(ひじかたとしぞう)は旧幕府軍の一員として新撰組の生き残りを率い、函館戦争に参加します。戊辰戦争で鳥羽伏見の戦いから局地的な勝利はあっても、土方歳三の所属する旧幕府軍は負け続けます。そして、戦場は北海道、函館に移動するのです。函館が、土方歳三最期の地となります。土方歳三最期の日、彼は腹部に銃弾を受け、それが原因で戦死します。しかし、その最期の様子にはいろいろな説があるようです。

 

キングダムと三国志 信と曹操のはてな(疑問)

 

土方歳三の最後の日、函館戦争では一体何が起きたのでしょうか?

 

 

 

監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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近藤の死後、北に流れ続ける土方歳三

土方歳三

 

戊辰戦争の中、土方歳三は戦いを続けていました。鳥羽伏見の敗北は新撰組にも決定的なダメージを与えました。

 

沖田総司 幕末

 

主要メンバーの戦死、脱落があり、そして有名な沖田総司(おきたそうじ)は結核で死を迎えようとしていました。

 

近藤勇 新選組

 

千葉県流山で、新撰組は官軍に包囲されます。ここで、近藤勇(こんどういさみ)は切腹を決意しますが、土方歳三がそれを翻意させました。ここで死ぬのは犬死であり、官軍の板橋総督府に出頭し、運を天に任せるべきだといいます。近藤勇は、盟友の言葉を受け入れ、官軍に出頭するのです。

処刑される近藤勇

 

しかし、近藤は武士としての名誉である切腹も許されることなく、斬首となることになります。

 

勝海舟

 

土方は旧幕府勢力の中で官軍につながりを持っている勝海舟(かつかいしゅう)などの人物などを頼り、近藤を助けようとしますが、それはかないませんでした。

 

坂本龍馬の臨終(暗殺)

 

一説では、土佐藩の谷干城(たにかんじょう)が、坂本龍馬(さかもとりょうま)を暗殺したのを新撰組であると信じ込んでおり、そのため強く処刑を主張したと言う説もあります。しかし、史料では近藤勇の斬首を主張したのは彼だけではなく、新撰組自体が、官軍にかなり憎まれていたようです

 

新選組に不審のある村人

 

 

近藤の死後も土方歳三は戦い続けました。脚に傷を受け復帰に3ヶ月かかります。彼が怪我を負う直前の江戸城開城で、もはや決着はついていました。しかし、江戸城開城の2週間後に近藤勇は刑死し、翌月には沖田総司が結核で死にます。試衛館からも盟友を失っていく土方はそれでも、戦いを続けました。土方歳三は、奥羽列藩同盟と共に、会津戦争にも参加します。

 

松本良順

 

 

しかし、官軍の勢いは止まらず奥羽列藩同盟は崩壊し、旧幕府軍残党は函館へと向かいます。函館に向かう前、土方歳三は、自分のような無能のものは最期まで戦い、国家に旬じると、医師の松本良順(まつもとりょうじゅん)に語っています。

 

 

土方歳三、700名を率いて松前城を落とす、蝦夷共和国の成立

 

土方歳三を加えた旧幕府軍は函館の地に上陸しました。土方歳三は、彰義隊・額兵隊・衝鋒隊の700名を指揮し、松前城を攻めます。当時この地を統治していたはずの松前藩です。すでに官軍に従う姿勢を見せていましたので、旧幕府軍にとっては敵です。しかし、松前城の兵力はすでにほとんど逃亡していました。松前藩には、積極的に抗戦する意思は薄く、藩主は何度も逃亡をしています。また、松前藩士の士気も低い状態でした。

 

榎本武揚

 

そのため、松前城はあっさりと落城し、旧幕府軍は蝦夷地の平定を成しえます。そして、旧幕府軍はその地に函館政権の樹立を宣言したのです榎本武揚(えのもとたけあき) を総裁とした蝦夷共和国の成立です。

 

 

土方歳三は優秀な指揮官だった二股口の戦い

 

宮古湾海戦に敗北した旧幕府軍は制海権を失い、官軍の函館上陸を許します。土方歳三が指揮したのは、二股口(ふたまたぐち)と呼ばれる場所でした。ここで、新政府の進撃を止め、徹底抗戦すると言う作戦目的です。しかし、抗戦して長く戦ったとして、どこからも援軍がくるわけではありません。無尽の戦力を持った官軍に限られた戦力て立ち向かう苦境を、土方歳三は言葉に残しています。

 

土方歳三は陸戦指揮官としても優秀でした。官軍はあえて鈴の音を鳴らすことで、二股口が包囲されているかのような策略を実行します。

 

しかし、土方歳三はそれを計略であることを見抜きます。包囲殲滅を狙うほうが音をたてるはずがないという、百戦錬磨の実戦経験に裏打ちされた慧眼でした。また、土方は「鬼の副長」の異名を忘れたかのように、戦いの合間に部下に対し酒を振舞い、優しく接したといいます。全体に優勢だった官軍も二股口では土方歳三の指揮する軍勢に大苦戦します。土方歳三は局地的には勝利を重ねていました。しかし、その勝利を幾ら重ねても、最後の勝利がありえないことも土方歳三は知っていたのです。

 

敵の兵力は無尽蔵であり、こちらは寡兵で孤立無援局所的な勝利はあっても、必ず最後には負ける。しかし無様には負けない」と函館の戦いの前に語っていたのです。

 

土方は自身の予想とおりに局所的な勝利を続けます。しかし、もう一方の防衛拠点であった松前口が官軍に突破されました。こうなれば、二股口で防衛戦を行う意味がありません。しかも、動きが遅れれば退路をふさがれ包囲殲滅されます。土方歳三は二股口から撤退し五稜郭に戻ります。

 

 

新政府軍の函館総攻撃に土方歳三は

 

土方歳三の最期に関わる戦いが始まろうとしました。官軍、新政府軍の総攻撃が開始されたのです。このときの戦いは、明治以降も生き残り、新撰組の伝承を続けた島田魁(しまだかい)が書き残した文書にも記されています。官軍の攻撃により、島田が所属する新撰組本体が「弁天台場」に孤立してしまうのです。「弁天台場」は函館湾に突き出た出城、外郭防衛の砦です。

 

篭城戦を強いられた新撰組の仲間を救うため、500人の兵を率いて出撃します。土方歳三の率いる軍勢は一時的に、異国橋近くまで新政府軍を押し返します。しかし、長くは持たず撤退戦となります。

 

 

土方歳三の最期とは?

 

土方歳三の最期については諸説あります。島田の証言や「弁天台場」救出作戦での土方歳三の目撃証言は残っており、それを見る限りにおいて、雲霞のごとき敵陣に単騎で突っ込んで斬り死にしたという話は、後世の作り話のようです。状況的に単騎で突っ込める場面ではありませんし、土方歳三は負けると分かっていても、そのような無謀な「犬死」のような戦い方をする侍ではないでしょう。敵をひとりでも倒すことを最後まで諦めないでしょう。

 

最後に土方歳三を目撃しているのは、陸軍奉行添役だった大野右仲(おおのうちゅう)(又はすけなか)()です。その手記「函館戦記」に最後に土方歳三に会い、話をした場面が書かれています。海での戦いを続けていた旧幕府軍、榎本武揚の軍艦「蟠龍」砲撃が官軍の「朝陽」を捉えたのです。砲撃の爆発音が響く中、土方歳三はこれを勝機とみます。

 

そして「この機失するべからず 吾れこの柵に在りて、退く者は斬らん」 と味方を鼓舞します。これが、公式に残っている土方歳三の最後の言葉となっています。その後、土方歳三は、腹部に銃弾を受け斃れました。銃撃戦の中、幕末時代に真の侍となることを目指した男は函館の地で最後を迎えたのです。

 

 

鬼の副長は函館では優しかったどうして?

 

新撰組の「鬼の副長」として有名な土方歳三。敵だけではなく、隊内でもその粛清で非常に恐れられた存在でした。しかし、函館戦争では人が変わったように優しくなっていたということです。新撰組隊士であった中島登(なかじまのぼり)は、土方歳三は母親のように慕われていたと言っています。しかも、若い隊士の相談に乗るなど、尖った刃のような印象は全くなくなっていたようです。

 

少なくとも味方に対してはです。敵に対しては容赦のない鬼のままであったのでしょうが。これは、すでに自分の死を悟っていたこと。旧幕府軍と官軍の戦争の行方はもう動かないことが分かっていたのでしょう。旧幕府軍は滅びるが、その滅びに準じて最後まで義に生きていこうする覚悟を決めた部分もあったのでしょう。そして、勝ち目のない戦についてくる部下に対し、きつく当たることなどできかったこともあるでしょう。劣勢な自軍の士気を維持するためという計算もあったかもしれません。

 

その意味では、土方歳三は軍事的に徹底して合理主義者です。土方歳三の優しさは、指揮官として合理的な帰結としての態度であった可能性はあるでしょう。

 

 

史上有名な土方の洋装姿の写真に込められた思いとは?

 

土方歳三の写真といえば、洋装姿の写真です。現代にも彼のイケメン振りを伝える写真となっていますが、この写真は、土方歳三の死の直前、函館で撮影されたものでした。土方歳三は、徹底した合理主義者であったと推測できます。剣の握り方ひとつとっても、独自の理によって試衛館の教えとは異なる、実戦に即した握り方をしていたのです。陸戦指揮をみても、合理的で柔軟な思考のできる人物だったのです。写真を厭うような人物ではなかったわけです。

 

そして、土方歳三は、撮影した写真と遺髪を小姓を務めていた市村鉄之助(いちむらてつのすけ)に渡しました。日野に帰って、故郷の家族に届けて欲しいと、土方は市村に命じます。しかし、市村もここで死ぬ覚悟でしたからそれを拒否しました。すると、土方は断ればこの場で斬るとまで言うのです。市村は結局、土方歳三の写真と遺髪を日野宿の佐藤彦五郎(さとうひこごろう)(土方歳三の義兄)に届けます。これが今に伝わる彼の写真です。土方はこっそりと、市村を見送っていたのではないかと市村本人は後に語っています。土方歳三には、写真と遺髪を故郷に届けると言う目的もあったのでしょう。

 

そして、同時に小姓であった市村鉄之助の命を助けたかったのかもしれません。土方歳三の写真にはそのような思いが込められているのでしょうか

 

 

幕末ライター夜食の独り言

 

土方歳三の最後について、単騎で大群に切り込み、鬼のように斬りまくり、銃弾に倒れるというのは確かに絵になります。多くのフィクションでこのような最後が描かれるだけの理由のあるかっこよさです。しかし、史実であろうと思われる土方歳三の最期も、壮絶であり、ある種の滅びの美と言うものさえ感じる筋立てになっています。

 

土方歳三の最期の詳細はまでは分かりませんが、戦いの中で、やはり敵に「鬼」のように恐れられ、そして歴史の意志が込められたかのような銃弾で斃れたのでしょう。鬼も激流のような歴史の波には抗えなかったのです

 

 

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夜食

歴史大好き。特に江戸時代から幕末、太平洋戦争にかけては好きすぎるくらいです。戦史が好きですので、時代を超えて「戦いの歴史」が好きという者です。よろしくお願いします!! 好きな歴史人物:田沼意次 何か一言:歴史小説もWEBで公開しています。

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