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権力と対立!一橋慶喜と島津久光、破綻した[友情]の内幕

2024年5月27日


徳川慶喜

 

 

徳川慶喜(とくがわよしのぶ)が主導する公武合体構想(こうぶがったいこうそう)がご破算になった大きな理由は、慶喜と薩摩藩父、島津久光(しまづひさみつ)の仲が非常に悪いという事でした。どちらも、頭脳明晰(ずのうめいせき)で誇り高いという点が似ていて譲歩が出来ないので事ある毎に対立し、仲裁役の松平春嶽(まつだいらしゅんがく)がいくら(なだ)めてもダメでした。

 

西郷隆盛

 

強硬な公武合体派だった久光が、西郷(せご)どんや大久保一蔵(おおくぼいちぞう)の意見に乗って倒幕に舵を切ったのは、慶喜と険悪だった事が大きな理由ですがでは、二人の仲はどうして悪くなったのでしょう。

 

 

 

監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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最初から印象最悪だった島津久光

印象最悪だった島津久光

 

1862年3月、島津久光は幕府に無断で上洛を開始します。4月に京都に入り、雄藩と幕府による政権運営の為の種々の改革案を取りまとめ6月には江戸に入り、幕府に改革案を大半飲ませました。

 

これが文久の改革(ぶんきゅうのかいかく)と呼ばれるものであり、この中で謹慎は解かれたものの無役でブラブラしていた一橋慶喜は、将軍後見職(しょうぐんこうけんしょく)として中央政界に復帰します。これだけ見ると久光は慶喜に感謝されそうですが事実は正反対でした。格下の薩摩藩に朝廷からの政治改革案を飲まされた事で、幕臣たちはプライドを傷つけられ、激しい憎悪を感じたのです。もちろん、その中には御三家の水戸藩の出身である一橋慶喜もいました。

 

徳川慶喜

 

 

「なんだ!田舎もんが調子こきやがって、政治はそんなに甘くないぞ」

 

島津斉彬

 

兄の斉彬(なりあきら)と違い、中央では全く無名だった久光は、しきたりを知らない生意気な田舎大名とレッテルを貼られてしまったのです。西郷どんが地五郎(田舎者)と呼んで上洛は時期尚早(じきしょうそう)と止めた反動が早くも、この時点で出てきてしまいました。

 

 

二人の関係を修復不能にした横浜鎖港問題

黒船

 

しかし、文久の改革の時のゴリ押しは、まだ少しの溝で済んでいました。二人の関係を決定的に悪くしたのは、その後の横浜鎖港問題(よこはまさこうもんだい)です。当初、二人は協力して参預会議を開き、松平春嶽、山内容堂(やまのうちようどう)伊達宗城(だてむねなり)松平容保(まつだいらかたもり)などを加え、朝廷の方針を開国に修正した上で徐々に国を開こうという方針でまとまっていきます。

 

ところが開国で話を進めようと決めていた所に慶喜が「攘夷(じょうい)の為に横浜港を鎖港する」と仰天の話を持ち込んできたのです。その原因は孝明天皇(こうめいてんのう)が幕府に攘夷の決行を迫った為でした。

 

孝明天皇

 

 

攘夷決行を条件に、和宮(かずのみや)家茂(いえもち)に降嫁させた幕府は無理だと分かっていても天皇の命令を無下に出来ないので、横浜を鎖港して攘夷のポーズを取り天皇と尊攘派(そんじょうは)の機嫌を取るという姑息な手段に出てきたのです。

 

密談

 

 

もちろん、諸外国は幕府に猛抗議したので、幕府は鎖港を撤回しますがそれで諦めたわけではなく、使節団を欧州に派遣して横浜鎖港を交渉すると決めました。でも、でも、鎖港するのは横浜だけで函館(はこだて)と長崎は従来通り開くので日本のど真ん中の横浜港だけが閉じるという意味不明な話でした。

 

 

真っすぐな久光と曲芸師の慶喜は激突

 

これには参預会議(さんよかいぎ)紛糾(ふんきゅう)しました。賢侯(けんこう)達は、口々に「意味ないじゃん」と鎖港の無謀を主張します。特に、激しく抗議したのが久光でした。

 

「そいはスジが違いもすじゃろう!横浜だけ閉じて函館と長崎は開くなどまっこち半端じゃそいで攘夷が貫徹(かんてつ)できっとでごわすか?」久光は性格的に曲がった事が大嫌いな人なので、この中途半端な攘夷案に憤慨(ふんがい)しました。開くなら開く、閉じるなら閉じるハッキリしろと言うのです。久光は使節を欧州に派遣するのも、どうせ失敗するし銭の無駄だからそれを攘夷の為の軍備に充てよと主張します。

 

徳川慶喜

 

 

しかし、慶喜は引き下がらず「函館と長崎は京都から遠いが横浜は近い、鎖港に意味はある」と主張そして、使節はもう出発したと聞きません。

 

「一橋殿の物言いは、わかいもはん!ちっともスジが通らん!」

 

頑固でスジが通った久光の言い分に賛同者が多くなると、慶喜は恐れ参預会議をぶち壊そうと画策し、中川宮邸の宴席でわざと泥酔して登場し一同を酒の勢いで罵るなどして参預会議は空中分解します。

 

徳川慶喜

 

 

以来、久光は慶喜が大嫌いになりました。口先だけで言う事がコロコロ変わる二枚舌、三枚舌の詐欺師(さぎし)だと完全に見限ってしまうのです。

]島津久光]

 

この後、久光は一橋慶喜が15代将軍に就任してから召集された公武合体路線の四侯会議(しこうかいぎ)にも出席しますが、最初から険悪な雰囲気終始にらみ合いでこちらも失敗し、久光は結局、西郷と大久保に政治を任せて薩摩に帰ってしまうのです。

 

 

幕末ライターkawausoの独り言

幕末ライターkawausoの独り言

 

どうも横浜鎖港問題では、当初は慶喜も反対だったようです。しかし、幕府の老中達に説得されて賛成に回りました。慶喜からすれば、「幕府の事情も知らんで好き放題正論を言いやがって田舎もんが」という苦い思いがあったでしょうし、久光から見ると、「なんで中途半端な事をするのか?真面目にやれ」そう考えた節があります。

 

因みに、遣欧使節団は池田長発(いけだながおき)を団長にフランスに向かいましたが、フランスの近代文明に圧倒されて横浜鎖港など無理だと悟りそれ以後の予定を独断で切り上げて日本に帰ったそうです。

 

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台湾より南、フィリピンよりは北の南の島出身、「はじめての三国志」の創業メンバーで古すぎる株。もう、葉っぱがボロボロなので抜く事は困難。本当は三国志より幕末が好きというのは公然のヒミツ。三国志は正史から入ったので、実は演義を書く方がずっと神経を使う天邪鬼。

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