NHK大河ドラマ、光る君へ第二十一話「旅立ち」では、逮捕され九州に流される事になった藤原伊周が牛車で移動している途中、検非違使により馬での移動を命じられ、泣きべそをかきながら拒否するシーンがありました。それは、どうしてなのでしょうか?じつは平安時代において牛車と馬には、乗り心地以上の大変な違いがあったのです。
牛車に乗れるのは貴族だけ
平安時代、牛車に乗れるのは従五位下以上の身分に限られていました。従五位下は、ギリギリ貴族と呼べる地位であり、天皇に直接会う事が出来る地位でもありました。一方で馬は平安時代には身分に関係なく乗る事が許されています。そのため牛車に乗れる地位である伊周が牛車から降ろされて馬で移動を命じられるのは、お前は貴族ではないと言われたのと同じだったのです。
牛車にもランクがある
牛車に乗れるのは貴族だけと書きましたが、牛車にもランクがあり身分で規定されていました。最上級の牛車は唐車と言い、牛車の屋根が唐破風になっています。唐破風とは、平たく言うと霊柩車の屋根のようなものです。唐車は上皇や皇后、東宮、親王、摂政・関白など極めて地位が高い貴族の専用車でした。大河ドラマでも出家して法皇になった花山院は愛人の屋敷に忍んで来る時に唐車を使用していました。唐車と同じグレードにあったのが、枇榔毛の車で、こちらは屋根に枇榔というヤシの葉を白くさらして編んだもので屋根を葺いていました。枇榔は日本では九州、南四国でしか取れないので枇榔毛の車は高い身分の貴族でないと葺く事が出来ない高級品でした。次にランクが高いのが、糸毛車でより糸で牛車を覆ったもので、皇后や親王、執政は青色、女御は紫色を使うなど色まで区別されていました。
中級貴族も乗れた網代車
さて、中級の貴族になると網代車がよく使われました。網代車は青竹や檜の木を薄く切った板で漁網のように牛車を覆う形です。特に屋形に九曜星が描かれた八葉車に人気がありました。しかし、八葉車に人気があるあまり、都の大通りを走っているのは網代車ばかりになったので、貴族たちは自分の牛車を識別するために牛車の外装に家の家紋を描くようになりました。現在でいえばナンバープレートのようなものですね。これが日本における家紋の始まりで、時代が下っていくと貴族だけでなく貴族から政権を奪い取った武士も家紋を持つようになっていきます。
あえて網代車を使う高級貴族も
この網代車ですが、中級貴族ばかりでなく高級貴族も使う事がありました。その理由は網代車があまりに一般的に走っているために、目立ちにくいからです。高級貴族の中には、お忍びで愛人の屋敷に向かう時や、政治的な陰謀で関係者と密会する時に、人目を欺く必要から意図的に網代車を使っていたのだそうです。
天皇は牛車に乗らない
では、人臣の頂点に立つ天皇はどんな牛車に乗っていたのでしょうか?実は、天皇は牛車にも馬にも乗らず、人が担ぐ鳳輦という輿に乗って移動していました。鳳輦は現在の神輿にそっくりで、当時、天皇が神の子孫と考えられていた事が分かります。
まとめ
現代の私たちから見れば、大した違いがあるようには見えない牛車ですが、平安時代にはランクが細かく分けられ、使われている材質も違い、当時を生きた人々は牛車を見ただけで、それがどの程度の地位の貴族かすぐに分かったのだそうです。この点を踏まえると、牛車で移動するのが当たり前のセレブ生活を送っていた伊周が、突然、牛車を取り上げられ馬で移動する事を命じられてショックを受けたのも分かる気がしますね。
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