前漢時代を学ぼうと思ったらまず手に取るのは司馬遷が編んだ『史記』でしょう。司馬遷の情熱が注がれた歴史の基本書である『史記』は中国の歴史をまざまざと読者に伝えてくれますよね。しかし、前漢時代に限って学びたいのであれば、他の時代の記述もくっついている『史記』よりも班固が著した前漢時代の断代史である『漢書』の方がいいのでは?と思った人もいるでしょう。
たしかに、前漢時代しか書かれていない『漢書』の方が前漢時代の勉強には適しているかもしれませんね。それにしても、既に司馬遷によって前漢時代のほとんどが描かれているというのに、なぜ班固は『史記』と重複する時代まで含めてわざわざ『漢書』を著したのでしょうか?そこには班固の歴史に対する強い思いがあったのです。
『漢書』の前身『史記後伝』
司馬遷の『史記』は前漢の武帝の時代で終わっています。それは、司馬遷が武帝の時代に活躍し、そしてその時代に亡くなったためです。その『史記』の後を補い、前漢時代の全てを描き切ろうと考えた人物がいました。
その人こそが、班固の父・班彪です。彼が補った『史記』の続編は『史記後伝』。彼は、前漢末の学者である劉向・劉歆父子が著した書籍目録『七略』や劉向が歴代の占いの結果や災厄などを記録した『洪範五行伝論』などを参考にしながら、というかその内容のほとんどをそのまま使い回しながら前漢王朝が新王朝に取って代わられるまでを描こうとしました。ところが、班彪は夢半ばで倒れ、『史記後伝』は未完に終わってしまったのでした。
父の遺志を継いだ班固
未完に終わった『史記後伝』ですが、息子の班固がその遺志を継ぐことを決意します。班固は父が常々『史記』にダメ出しをしていたことを思い出します。
「司馬遷の『史記』は漢のはじまりから武帝までは良い。
でも、それ以前のことは『春秋左氏伝』などの経や伝の内容を採用したり、
その他の書物の記述を散りばめたりしていて、
いい加減であることが多くて元々の書物の内容には及ばない。
何とかして見聞きした情報を全て載せようと努力したのだろうが、
そのせいでかえって情報の取捨選択がうまくなされなかったのだ。
しかも『史記』の内容は老荘思想を尊んで儒教を軽視している。
儒教に泥を塗るようなこの行為は、極刑を免れないほど罪深い。」
司馬遷を厳しく批判するこの父の言葉を受け、お堅い班固は司馬遷の『史記』にますます批判の目を向けます。そもそも『史記』のはじまりが神話時代ともいえる五帝本紀なのはおかしいのではないか?
儒教を弾圧した秦王朝の存在を肯定してしまうと、儒教の正統性を揺るがしてしまうのではないか?そう考えた班固は正統な歴史のはじまりを漢の高祖の時代からということにします。そういうわけで、『漢書』は前漢王朝一時代だけのことを記す断代史の形式をとることになったのでした。
『史記』のダメなところは全て改変
司馬遷は儒教の祖である孔子が著したとされる『春秋』に則って歴史を記しながら自分の考えや批判を織り交ぜながら『史記』を著しました。しかし、班固はそれを良しとしません。あくまで歴史的事実のみを列挙していくべきだと考えた班固は、司馬遷の文章を反面教師するかのようにより洗練された文章を生み出しました。
そのため、司馬遷の『史記』は物語的であるのに対し、班固の『漢書』はカチカチの説明文的な文章になっています。また、班固は『史記』の体裁を一部踏襲しながらも、いくつか変更を加えています。
たとえば、『史記』には立てられなかった恵帝本紀を立て、『史記』では本紀に入れられていた項羽を列伝に降格しています。更に、『史記』の「書」は「志」に改名し、『史記』の「世家」は廃止。また、表には官職の沿革を記した「百官公卿表」などが加えられています。その他諸々、『史記』と『漢書』を見比べていくと班固による改変はまだまだたくさんある様子…。班固の強い意志を感じずにはいられませんね。
三国志ライター chopsticksの独り言
前漢王朝の歴代皇帝を賛美し、その帝位を奪った新の王莽に厳しい目を向ける班固。こうして見ると、班固は漢王朝の正統性に固執し、それ以前の時代の全てを否定しているかのように受け取れますが、決してそういうわけではなかったようです。
班固は「古今人表」というものを設け、前漢よりも前の人物についてランク付けをしています。「古今」と言っているのに「古」の人物しか扱われていないことについて度々議論がなされているこの表ですが、おそらく古の聖人や愚人を示すことにより、今の人にお手本にしてほしいとの願いが込められているのだろうと言われています。たしかに班固は漢代よりも前の本紀をバッサリ斬り捨ててしまいましたが、その存在の全てを否定したわけではなかったというわけです。
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