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諸葛亮の意外な弱点!歴史知識は実は[いい加減?]

2024年6月12日


 

孔明

 

諸葛孔明(しょかつこうめい)と言えば、謹厳実直(きんげんじっちょく)の権化であり、自他ともに厳しい仕事人間というイメージが先行しているのではないかと思います。しかし、彼の発言を子細に見ていると、大雑把(おおざっぱ)であやふやな発言があり実は、割といい加減な所があったように思えるのです。

 

 

監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。戦略設計から実行までの知見を得るためにBtoBプラットフォーム会社、SEOコンサルティング会社にてWEBディレクターとして従事。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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曹丕の揺さぶりに対し国内に檄を飛ばす孔明

曹丕

 

劉備(りゅうび)が白帝城で没した頃、曹丕(そうひ)は、華歆(かきん)王朗(おうろう)陳羣(ちんぐん許芝(きょし)諸葛璋(しょかつしょう)というような重臣の面々に命じ、孔明に魏に降るように手紙を出させています。

 

孔明インタビュー

 

当時の孔明は、劉備から蜀の全権を任されているので、孔明が降るという事は、蜀が降伏するという事でした。曹丕は、これで孔明が降るとは思っていませんが、劉備の死につけ込み、蜀を揺さぶるという狙いがありました。

 

孔明

 

 

そこで、諸葛亮は国内の引き締めを図る為に、正議(せいぎ)という文書を国内に配布して徹底抗戦の意志を示します。しかし、この正議には事実誤認があるのです。

 

 

初耳、釜茹でになった項羽?

項羽

 

正議は、以下のような書き出しから始まります。

 

昔、項羽(こうう)の場合は徳義によらないで旗揚げした為、中原におり、皇帝の権力を持ちながら、結局、釜茹(かまゆ)での刑を受け長く後世の(いまし)めになった魏は、その手本を(かんが)みないで今、これに続こうとしている。自分の身は幸いにして免れても、いましめは子孫に現れるだろう。

 

ところが、二、三の老臣がいい加減な指令を受けて私に手紙を寄こして、降れなどとバカな事を言う。あたかも無道な王莽(おうもう)の治世を賛美した陳崇(ちんしゅう)張竦(ちょうしょう)のデジャブを見ているようだ

 

 

青州兵(兵士)

 

このような形で文書は続き、最後には、正しい事をしている王者の軍に軍勢の多寡は関係ない、一丸になって魏を砕くぞ、ファイト!オー!というような締めくくりなのですが、問題は項羽が釜茹でになったというような部分です。

 

項羽

 

史記で項羽は、垓下(がいか)の包囲を切り抜けて、烏江(うこう)まで逃げのびますがそこで、観念し自殺して果て、その体は恩賞欲しさの漢の兵士に切り刻まれ胴体は五つに分断されたと言われています。つまり、項羽が釜茹でになったという記述はないのです。

 

項羽の旗揚げには大義がないのか?

楚

 

もう一つ、気になるのは孔明が項羽の旗揚げには大義がないと書いている事です。これも疑問符が付く話で、江南で旗揚げした項羽と項梁(こうりょう)は、自ら張楚王を名乗り人望を失った陳勝(ちんしょう)(てつ)を踏まず、かつて秦に滅ぼされた楚王の子孫である羊飼いの羋心(びしん)を探し出して義帝としました。

 

始皇帝(キングダム)

 

楚は、秦の天下統一に最も激しく抵抗した国であり、この時にバラバラに蜂起していた反秦連合軍は、一本化されたのです。

 

劉邦

 

 

漢の高祖、劉邦(りゅうほう)もここで項梁の下に入って将軍になっています。もし、項羽の旗揚げに大義がないなら、それに呼応した劉邦にも大義がないそんな帰結になるのではないでしょうか?

 

 

 

孔明、いい加減に歴史を覚えている疑惑

孔明

 

孔明は、一言一句を丸暗記して覚える当時の勉強方法を批判し、ざーっと書物を読んで内容を大体把握したら、次に進んだと言われています。

 

その分だけ、多読していたとも言えますが、同時にかなり大雑把に歴史を覚えてしまったのではないでしょうか?

 

史記で項羽は釜茹でが大好きな人物として挙げられます。彼は、劉邦の家臣の王陵(おうりょう)を味方にしょうとして、王陵の母を捕えて人質にしようとしますが、王陵の母は息子の足手まといになる事を怖れ自殺怒った項羽は王陵の母の遺体を釜茹でにしています。

 

項羽

 

 

また、捕虜にした劉邦の家臣の周苛(しゅうか)を味方にしようとして罵倒され、やはり激怒して釜茹でにし、劉邦の父、劉大公を釜茹でにしようとして劉邦に言い負かされ、未遂に終わっています。

 

ちょっとやり過ぎたと反省する諸葛亮孔明

 

諸葛孔明は恐らく、項羽に付きまとう釜茹での文字が頭に残り項羽もまた、釜茹でになり殺されたと思い込んだのではないでしょうか?そして、項羽と項梁の挙兵と、その前の陳勝と呉広(ごこう)の時間間隔がごっちゃになってしまい、項羽の旗揚げに大義がないと思い込むに至ったのではないかと思うのです。

 

 

追記

 

「そうなの?諸葛亮はいい加減に歴史を覚えていた」こちらの記事への読者の方の感想に

 

後漢書(書類)

 

三国志の時代、史記は低俗と見做され、班固の漢書が正統とされていたというご意見がありました。つまり、諸葛亮は史記の記述ではなく漢書を参考にしたのだというご意見と考え、間違いがあってはいけないと漢書の高帝紀を確認してみました。

 

 

しかし項羽は垓下で包囲されて四面楚歌を聞き、数百騎で逃げて楚軍は敗退し東城で灌嬰(かんえい)に斬られたとあり、項羽が釜茹(かまゆ)でにされたというような記述はありませんでした。また、もしやと思い、同じく漢書の陳勝項籍列伝(ちんしょうこうせきれつでん)にもあたりましたが、こちらでは、項羽は顔なじみの呂馬童(りょばどう)に手柄を立てさせてやろうと自ら首を刎ねて死に、その遺体に漢兵が群がり、体は5つに分けられてしまったとあるだけで確認出来ませんでした。

 

忙しい方にざっくり解答03 kawausoさん

 

もし、漢書に項羽は釜茹でにされた記述があるのをご存知の方はご連絡をいただければ、訂正致します。以上、追記でした。

 

 

三国志ライターkawausoの独り言

三国志ライターkawausoの独り言

 

不思議なのは、孔明は間違って覚えているとしても正議を読んだ蜀臣は、どうして事実誤認を突っ込まないでスルーしたのか?という事です。まさか、誰も校閲(こうえつ)しないで世間に文書を出してしまい、いまさら間違いでしたとは言えない雰囲気になり、

 

 

「ま、文字が読める人間は少数だし全員で気が付かないフリをしよう」

 

こんな忖度(そんたく)が広がり、そのままになったのでしょうか?

 

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kawauso

台湾より南、フィリピンよりは北の南の島出身、「はじめての三国志」の創業メンバーで古すぎる株。もう、葉っぱがボロボロなので抜く事は困難。本当は三国志より幕末が好きというのは公然のヒミツ。三国志は正史から入ったので、実は演義を書く方がずっと神経を使う天邪鬼。

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