『江藤新平の功績を知ろう、「この国のかたち」』では、江藤新平の功績について取り上げ、この功績の中で、顔写真で指名手配犯を公開するというシステムを作った人物として取り上げました。江藤新平は近代司法制度の基礎を築いた人物として評価されていますが、明治六年政変で下野して佐賀の乱を起こすと壮絶な最期を遂げました。この記事では江藤新平の最期について取り上げます。
写真手配制度、制度化した江藤が適応第一号に…
逃走する犯人を逮捕するために指名手配の写真が貼り出されたり、ニュースで公開されたりして、多くの人が目にすると思います。写真以外では、警察官が犯人の似顔絵を描いて公開することもあります。江戸時代では人相書きという犯人の似顔絵が貼りだされていました。時代劇やドラマなどで人相書きを見たことがあると思います。丁寧に描かれているものもあればいい加減な似顔絵もあり、本当に逮捕できたのか疑問に思った人もいると思います。
幕末になると、西洋から写真技術が導入され、司法卿になった江藤新平は手配写真のシステムを導入しました。江藤が人相書きよりも手配写真のほうが正確に犯人の特徴を伝えやすいと考えたのかもしれません手配写真が適用された指名手配犯第1号は誰か気になると思います。その第1号は、皮肉にも手配写真のシステムを作った江藤新平です。江藤は佐賀の乱で、敗退を繰り返しました。応援を請うために薩摩や土佐を駆け回りますが、断られました。指名手配の写真が決め手となり、土佐で逮捕されました。
佐賀の乱、その裁判はどんなものだった?
佐賀の乱で逮捕された江藤新平の裁判はどのようなものだったのでしょうか。ここでは現在の裁判と江藤新平の裁判と比較します。現在の日本の裁判制度は三審制で、慎重に審理されます。立法府や行政府が裁判に干渉することはできません。日本の裁判については長期化するという弱点も指摘されています。
では、江藤新平の裁判はどのようなものだったのか。江藤新平が司法省の司法卿の頃に司法制度を整備したと言われていますが、近代司法制度は適用されず、形ばかりの裁判で終わりました。最初から明治政府は江藤を賊として死刑にすることを決めていて、斬首のうえ梟首という刑を科しました。判決後、数日以内に執行されました。
梟首ってどんな刑?
梟首とは江戸時代に庶民に課せられていた死刑の一つです。斬首の後で死体を試し切りにし、はねた首を台に乗せて3日間見せしめとして晒す刑罰です。晒し首とも言います。梟首の刑に科せられた場合、財産は没収され、死体の埋葬や弔いも許されませんでした。佐賀の乱の首謀者・江藤新平については晒された首を撮った写真が残されています。梟首による刑罰は1879年の明治12年太政官布告第1号により廃止されました。なお、斬首は1882年1月1日に施行された旧刑法により廃止されるまで残りました。
「ますらおの 涙を袖にしぼりつつ 迷う心はただ君がため」
この句は梟首の刑に科せられた江藤新平の辞世の句だと伝わっています。この江藤の句には司法制度による判決ではなく、政府が司法に干渉した強引な力でもって死刑判決が出されました。江藤は違法な裁判であると訴えたかったのかもしれません。
幕末ライターオフィス樋口の独り言
今回は近代司法制度の父と言われる江藤新平の最期について取り上げました。江藤新平が佐賀の乱で処刑されることは有名ですが、顔写真による指名手配を考えた人が第1号として顔写真を貼り出されるという皮肉な結果は意外だったのかもしれません。
世界史で言えば、ギロチンという死刑の方法を考えたジョセフ・ギヨタンが後にギロチンで処刑されたという話を思い出した人がいるかもしれません。日本史と世界史で皮肉な話について取り上げてみたいと思います。
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