奄美大島編が終り、ドラマの舞台は島津久光の上洛で騒然となる京都へ移ります。ずっと薩摩藩から出られなかった大久保正助(一蔵)も藩父久光の知遇を得て抜擢され、長男が産んだばかりの妻、満寿子を置いて京都に上るのです。しかし、そんな満寿子を薩摩に置いて大久保は京都で愛人を持つ事になります。それが京都祇園のお茶屋、一力亭の芸妓おゆうでした。
この記事の目次
大久保一蔵唯一の愛人 おゆうは実在するの?
大久保一蔵の愛人、おゆうは実在する女性です。京都祇園の茶屋、一力亭の主人、杉浦治郎右衛門の娘とも養女とも言われ、かなり人気がある美人芸妓で、おゆうをひいきにする客は多かったそうです。一蔵とは、大久保が京都で活動するようになってから知り合い、慶応二年(1866年)からは、大久保の京都での生活はおゆうが妻として振る舞いました。
満寿子は嫉妬しなかったの?当時の愛人妾とは
視聴者の中には、「多情な浮気者の西郷どんならともかく真面目一徹な大久保一蔵が、愛人を持っていたなんて」と驚く人もいるかも・・しかし、当時は、、というよりは江戸時代全般を通じて藩を離れ出張する武士が愛人を持つのは、珍しくありませんでした。
便宜上、愛人と書きましたが、当時は愛人ではなく妾であり、法律上も第二夫人として位置づけされ、夫との間に生まれた子供は、ちゃんと認知されていました。そうでなければ、危なくて妾になる女性などいなかったでしょう。こんな感じなので、長期出張を行う武士が妾を持つのは当たり前で正妻に対して罪悪感を感じるかどうかは、当人の心の問題でしかなく社会的には全く問題ではありませんでした。
もちろん、社会的に問題ではないだけで、当時も今も女性には、夫を自分だけのモノにしたいという独占欲がありますから妾と本妻との間の確執はケースバイケースで存在したようです。では、大久保家ではどうだったか?というと確執はなく、薩摩の大久保満寿子は、京都に愛人のおゆうがいる事は知っていましたが「大久保家の為に大切な仕事をされた方」と大事にしていたそうです。
大久保一蔵の出世はおゆうのお陰だった
どうして、満寿子が夫を奪ったおゆうを大事にしたのか?
それは、おゆうが京都滞在中の大久保を献身的に世話したからです。彼女は大久保の衣食住に至る、すべての身の回りの世話を完璧にこなし大久保を訪ねてきた人々にも心のこもった応対をしました。その為に大久保への手紙には、おゆうによろしくという一文があった程でした。大久保は生来、厳しい顔つきで人に威圧感を与えるタイプですが、その峻厳さは、おゆうのお陰でかなり弱められた事でしょう。京都での大久保の働きは、その後、大久保が明治政府で重臣として活躍する基礎になったのです。
もし、おゆうが大久保の妾じゃなかったら大久保一蔵の評価も「仕事は出来るが気難しくて扱いづらい」とされて、明治政府では、さほどの出世はしなかったかも知れません。
大久保との間に4男をもうけ大正まで生きたおゆう
おゆうは一蔵との間に4人の男子をもうけています。それぞれ、四男の大久保利夫、六男大久保駿熊、七男大久保七熊、八男大久保利賢です。四男の利夫は海軍軍人になり少尉で病死、八男の利賢は銀行家として活躍しています。
八男利賢は明治11年の10月大久保利通の死後に生まれている事から、明治維新後も、大久保利通とおゆうの関係は続いていた事になります。大久保利通は、明治11年、5月24日に凶刃に倒れますが、その時、利賢を妊娠していたおゆうの悲しみは一入だったでしょう。そんなおゆうは、大久保の分も長生きし大正7年1月26日に亡くなりました。おゆうの生年は不明ですが、大久保と出会った頃から考えても70歳は越えていた事でしょう。頑固一徹で気難しい薩摩男を支え世に出した気丈な京女は幕末から明治を生き抜き大往生を遂げたのです。
幕末ライターkawausoの独り言
どこまでも陽性で周囲に人が集まる西郷どんと違い、大久保正助は峻厳で一部の心を許した同志しか集まらないというのは、西郷どんでも描写されますがそれはおおむね事実でした。大久保も内心それを気にしていて、明治に入ると他人の意見を聞く時はわざと目を閉じて威圧感を軽減するように努めていたそうです。
しかし、書生時代の中江兆民が大久保と会見した時の事、大久保が目を閉じると兆民は「人が話をしている時に寝るとは何事か!」と怒り出し大久保は慌てて事情を説明したという話が残っています。そんな大久保なので、美人できくばり上手のおゆうの存在は、どれだけ助かったか分からないですね。
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