江藤新平と大久保利通、明治時代の権力闘争

2018年5月26日


 

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岩倉使節団(いわくらしせつだん)が帰国後、明治政府内で西郷隆盛(さいごうたかもり)江藤新平(えとうしんぺい)ら留守政府と

大久保利通(おおくぼとしみち)ら岩倉使節団が対立しました。この対立を明治六年政変と言います。

この記事では、明治六年政変の解説から不平士族の反乱・佐賀(さが)の乱に至るまでの過程を取り上げます。

 

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監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。戦略設計から実行までの知見を得るためにBtoBプラットフォーム会社、SEOコンサルティング会社にてWEBディレクターとして従事。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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明治六年政変、いったい何があったの?

 

岩倉使節団が帰国した頃、明治政府内で征韓論(せいかんろん)が高まっていました。

征韓論とは武力をもって朝鮮を開国しようとする主張です。

留守政府の首脳だった西郷隆盛・板垣退助(いたがきたいすけ)・江藤新平

後藤象二郎(ごとうしょうじろう)副島種臣(そえじまたねおみ)らが主張しました。

 

岩倉使節団帰国後の閣議において対朝鮮外交問題が取り上げられました。

武力で開国するという主張がありましたが、

西郷隆盛を使節として朝鮮を開国させるということで決着しました。

 

明治政府は使節の派遣を決定しましたが、岩倉使節団の岩倉具視(いわくらともみ)・大久保利通らは

国内の政治を整備することを優先するべきだとして反対しました。

当時、太政大臣三条実美(さんじょうさねとみ)は病気で倒れ、太政大臣代理となった岩倉具視の意見が

明治天皇(めいじてんのう)に受け入れられ、使節を送ることが中止になりました。

 

その結果、西郷や板垣らの征韓論者は一斉に下野しました。

 



大蔵省から司法権を奪う、征韓論者の江藤は大久保の目にどう映った?

 

大久保利通(当時、大蔵卿(おおくらきょう))にとって、江藤新平が明治政府の中で

権力を握ることはないだろうと思っていました。

江藤新平が参議(さんぎ)司法卿(しほうきょう)になると、大蔵省から司法権を奪い、

大蔵卿の代理の井上馨(いのうえかおる)を汚職事件で摘発(てきはつ)し追い落としました。

江藤ら留守政府は西郷隆盛の征韓論を支持し、

国家を破滅に導こうとしているのではないかと警戒するようになりました。

 

佐賀の乱、どのように鎮圧されたの?

 

1874年、明治政府を去った江藤新平は佐賀で反乱を起こしました。

この反乱を佐賀の乱と言い、不平士族の反乱の1つとなっています。

佐賀で征韓論賛成者の征韓党(せいかんとう)と日本を封建主義に戻す憂国党(ゆうこくとう)が結成され、

兵の数は約5000に上りました。

 

新政府軍は徴兵令(ちょうへいれい)で編成された軍隊で、初めての実践が佐賀の乱でした。

佐賀の乱の最初は佐賀城で政府軍は兵を失います。

その後、政府軍は巻き返し、2月23日の寒津川・田手川の戦いで江藤らは退却しました。

江藤は鹿児島の西郷隆盛に助けを求めるため戦線を離脱します。

 

2月27日には江藤は鹿児島に入りましたが、西郷に断られました。

今度は土佐に向かい板垣退助らに助けを求めましたが、断られました。

すでに土佐に指名手配写真が出回っていたので3月29日に江藤は逮捕されました。

 

激動の幕末維新を分かりやすく解説「はじめての幕末はじめての幕末

 

臨時で作った裁判所で審議、江藤新平の処遇

 

3月29日、江藤新平は土佐で逮捕されました。江藤は東京での裁判を望みましたが、

天敵の大久保利通らはそれを許さず、臨時でつくった裁判所で形だけの審理を行いました。

わずか2日間の審理で死刑判決を出しました。

江藤は判決当日に斬首となり、見せしめのための晒し首になりました。

 

江藤は明治政府より賊として扱われ、財産は没収されました。遺族による弔いも禁止されました。

江藤新平「梟首(きょうしゅ)」その壮絶な最期とは』で江藤の辞世の句を紹介しましたが、

この江藤の句では違法な裁判であることを表わしています。

   

幕末ライターオフィス樋口の独り言

 

今回は明治の政治闘争・明治六年政変について取り上げました。

佐賀の乱で江藤新平が臨時裁判所で、わずか2日間の審理で江藤新平を死刑にした理由として、

大久保利通ら薩長閥の恨みを買ったからだと考えられます。

 

読者の中には恨みだけで梟首にするのはやりすぎではないかと感じる人がいるかもしれません。

また、三権分立を確立できていないことで内閣の意向が裁判に入った可能性が考えられます。

行政の圧力に屈することなく、三権分立を守った事例として大津事件があります。

大津事件と江藤新平の裁判を比較してみたいと思います。

 

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島津斉彬

 
 

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