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西郷どんの最愛の僧侶![月照の真実]

2024年8月5日


月照

 

西郷(せご)どんには、その人生に影響を与えた人が何名か存在しています。それは、師である島津斉彬(しまづなりあきら)藤田東湖(ふじたとうこ)橋本左内(はしもとさない))などがいました。しかし、西郷どんが一緒に死んでも良い程に信頼した人と言えば一人しかいません。それが清水寺成就院(きよみずでらじょうじゅいん)の勤皇僧、月照(げっしょう)でした。

 

大河ドラマ西郷どんでは、月照のキャストは、尾上菊之助(おのえきくのすけ)さんですが、今回は月照について、せごどんとのBLの噂も交えて解説します。

 

 

 

監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。戦略設計から実行までの知見を得るためにBtoBプラットフォーム会社、SEOコンサルティング会社にてWEBディレクターとして従事。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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文化10年大坂の町医者の子として香川県に生まれる

 

月照上人は、文化10年1813年、大坂の町医者の息子として讃岐国(さぬきのくに)に生まれます。名前は、宗久(そうきゅう)忍介(おしすけ)忍鎧(にんがい)久丸(ひさまる)等があります。14歳の頃、叔父で僧侶だった蔵海(ぞうかい)の伝手を頼って真言宗牛額寺に入って出家修行して1835年には、23歳で京都清水寺成就院の住職になります。そして、お寺の改革運動を始めますが挫折、北越の旅に出ました。

 

時代は激動の天保時代、天保の大飢饉などが発生一揆や打ち壊しが起きますが幕府は無策であり、大坂では幕府の与力である大塩平八郎(おおしおへいはちろう)の乱が起きます。与力(よりき)という上級武士から反乱者を出した幕府の動揺は大きなものでした。特に冷害が多くただでさえ凶作になりやすい北越の被害は大きいものです。それを見た月照の中で幕府の政治への疑問が芽生えたかも知れません。一祈祷僧(いちきとうそう)だった月照は、ただ祈るだけでは世の不条理は変えられないと思い始めていたのです。

 

 

薩摩藩ゆかりの近衛家と近い事が月照の運命を変える

公家

 

月照が住職を務めた成就院は、近衛忠煕(このえただひろ)久邇宮朝彦親(くにのみやあさひこしんのう)が出入りする寺でした。特に、近衛忠煕は薩摩の島津家とは700年以上の繋がりを持っており忠煕から和歌を習っていた月照は次第に尊皇攘夷運動に接近していくのです。1853年には、ペリー艦隊が浦賀に来航、次第に世の中は騒がしくなり、公卿といえど、和歌にだけかまけているわけにはいかなくなります。

 

こうして、住職として活動するのが窮屈になった月照は弟の信海(しんかい)に住職を譲りより積極的に国事問題に関わっていく事になりました。

 

 

篤姫輿入れと将軍後継者問題で西郷どんと出会う

西郷隆盛

 

1854年、島津斉彬は秘蔵っ子の西郷吉之助(さいごうきちのすけ)を伴って上京します。西郷どんの江戸での仕事は、斉彬の使いとして各地の大名重臣に顔を売りつつ、篤姫(あつひめ)の嫁入りに反対する勢力を懐柔(かいじゅう)し嫁入り道具などを選んでいく事でした。西郷どんは、東奔西走(とうほんさいそう)し京都では月照とも知り合います。勤王僧の月照は近衛家や各地の公家の屋敷に出入りしていたので、まだ顔が広くない西郷どんに取っては頼れるパートナーでした。

 

月照はどんな人物だったのかと言うと眉目清秀(びもくしゅうれい)威容端厳(いようたんげん)にして、風采(ふうさい)自ずから人の敬信を()くというハンサムでピシっとした人であり、元々礼儀正しい西郷どんも、とても尊敬したそうです。

 

 

斉彬急死、殉死しようとする西郷どんを止めた月照

西郷どんを止めた月照

 

篤姫の輿入れは紆余曲折ありながら、何とか成功しましたが、将軍後継者問題は、なかなか上手くいきませんでした。月照と西郷どんは、島津斉彬の意向に沿い、御三卿(ごさんきょう)一橋家の一橋慶喜(ひとつばしよしのぶ)を14代将軍に推して運動していたのですが、血筋が遠い事から、大奥と譜代大名(ふだいだいみょう)の代表である井伊直弼(いいなおすけ)等が反対します。

 

井伊直弼は、血筋が現在の将軍に近い、紀州の徳川慶福(とくがわよしとみ)を候補に推し一橋派と南紀派で江戸城は真っ二つに割れていたのです。しかし、一橋慶喜の父の徳川斉昭(とくがわなりあき)が、セクハラ行為と口うるさい事で大奥での評判が極めて悪い事から、一橋派の旗色は悪くなり

 

徳川斉昭

 

おまけにその途中で、有力な一橋派の大名、老中阿部正弘(あべまさひろ)と島津斉彬が、相次いで急死してしまったのです。主君、斉彬の死を知った西郷どんは、表面上は何ともありませんが、内心では強烈な衝撃を受け、自分の人生は終わったとばかりに荷物をまとめ薩摩に帰り、斉彬の墓前で自害しようと決意します。

 

誰一人、西郷どんの心境の変化に気づかないなかで、ただ一人月照だけが、それに気が付いていました。

 

月照「吉之助はん、あんたが殿様の墓前で腹を切っても殿様は喜びはしまへんえ、何故、わしの志を継がず勝手に腹を切ったと怒りはりますやろ・・殿様は、そんなお人やったやおまへんか?」

 

 

月照に説得されて西郷どんは考え直し、斉彬の遺志を継ぐ事が受けた恩義を返す事だと決意するのです。

 

 

空っぽになった西郷どんの心を埋めた月照の愛

 

林真理子の原作では、全てを失い心が空っぽになった西郷どんを月照は自分の夜具(やぐ)の中に誘い、ウヒョ!な事があったと書かれています。西郷どんは月照を愛する事で、斉彬を失った心の隙間を埋めて、立ち直る事が出来たというのです。本当に二人はBLだったか?記録がないので分かりません。しかし、最後には二人して堅く抱き合い冬の海に身を投げた二人には性別さえも超えた愛があったに違いないと考えて、林真理子が創作したお話のようです。

 

 

戊午の密勅に関与した事で月照は指名手配を受ける

江戸城

 

阿部正弘の死後、大老として幕府の最高権力者になった井伊直弼は、天皇の許しを得ずに日米修好通商条約(にちべいしゅうこうつうしょうじょうやく)を締結、それに抗議した徳川斉昭、徳川慶篤(とくがわよしあつ)松平春嶽(まつだいらしゅんがく)、一橋慶喜等の一橋派には謹慎処分(きんしんしょぶん)が降ります。

 

将軍には紀州の徳川慶福が決まり、さらには条約締結までも天皇を無視とあっては、勤皇藩で知られる水戸藩は腹の虫が収まりません。そこで、水戸藩士の鵜殿吉左エ門(うどのきちざえもん)鵜殿幸吉(うどのこうきち)父子は、単身で京都と水戸を往来しながら、孝明天皇から戊午の密勅(ぼごのみっちょく)を引きだします。

 

孝明天皇

 

これは自身を無視してアメリカと条約を結んだ幕府に対し天皇が立腹し独断で政治をしないで、諸大名とよく相談するようにという内容ですが内容そのものより、このような政治的な文書が幕府の頭越しに水戸藩に直接与えられたというのが、より問題でした。政治は幕府に任せた!天皇は口を出さないし、諸大名に号令もしないという250年の仕来りを無視したものだからです。

 

井伊直弼

 

天皇を処罰するわけにはいかないので、井伊大老の憎悪は、戊午の密勅を引きだした水戸藩や京都の公家や水戸派の志士に向かいます。そして、戊午の密勅には、月照も西郷どんも関係していました。最初に睨まれたのは月照であり、親しかった近衛忠煕も、「申し訳ないが、ここでは上人を庇う事は出来ない、、どうかその方達で匿ってはくれまいか?」と西郷どんに依頼したのです。

 

自分達に協力してくれた月照をみすみす井伊に捕えさせるわけにはいかない。まもなく西郷どんにも指名手配がかかるのですが、それはともかく、西郷どんは月照を匿い有村俊斎と従者の重助と4人で逃避行を開始します。

 

 

奈良までのつもりが薩摩まで逃げる羽目になる月照

 

当初、近衛忠煕は月照を奈良まで送り届けてもらえばよいと言いました。しかし、月照を駕籠(かご)に乗せて京都を出ると、直ぐに忠煕の見通しが甘い事を悟ります。街道筋には、似たような姿をした武士が大勢現れており、指名手配された人間を探していたのです。

 

「これは奈良どころではない、薩摩までお連れしないとダメじゃ」

 

西郷どんは決意して、思った以上に井伊の追及は厳しく上人には、薩摩までご足労を願わねばならないと説明しました。

 

月照「よございます、駕籠に乗った時から覚悟はできております。どこへなりと連れて行っておくれやす」

 

体は細いが、流石に勤皇に尽力したお坊さんだけあり肝は据わっていました。西郷どんは、急ぐだけ急いで、ようやく大坂に入り薩摩藩邸の吉井友実(よしいともざね)に相談吉井は小倉船をチャーターして月照一行を乗せますが、船着き場には、異変を嗅ぎつけた捕り方が数十名も集まってきました。

 

それを見た船頭も、これはヤバい客かもと思い、「夜は航路が確認できないので、出発は明朝にしたい」とゴネます。西郷どんは、何とか機嫌を取って出発させようとしますが、足元を見ている船頭は、取り合わず理由をつけて船を降りようとします。月照は観念したように静かに目を閉じていました。その時、吉井友実がブチ切れて、船の縁に足を掛けると刀を抜き、

 

「おどれら!四の五の言うて船を出さんなら、ここで斬り捨てちゃる念仏唱えて覚悟せい!」こう言って船頭を怒鳴りつけたので、恐れた船頭は急いで船を出したそうです。まさに危機一髪、吉井の行動で月照は救われたのです。

 

 

下関に到着するも、離れ離れになる西郷どんと月照

島津斉興

 

小倉船は下関に到着しますが、ここで西郷どんは薩摩藩主代行の島津斉興(しまづなりおき)が昨日、ここを通過したと情報を得ます。実は西郷どんは、斉彬死後に藩が急速に保守化している情報を得て月照を連れてきても(かくま)ってくれるか確信が持てませんでした。

 

そこで、斉興に直談判して月照の身柄を保護してもらう為の許可を貰おうとしたのです。西郷どんは、月照に「斉興に相談するので一足先に薩摩に向かう」と説明します。月照は不安でしたが、保護してもらっている立場で文句は言えませんでした。西郷どんは、有村俊斎(ありむらしゅんさい)を残しておくから大丈夫だと請け負いますがしばらくすると、有村も藩が心配と言い出して薩摩に帰ります。

 

代わりに月照には大坂からついてきた元薩摩藩士、北条右門(ほうじょううもん)がつきますがそれ以外には従者の重助のみ、さぞかし心細かった事でしょう。一番大事な時に月照の側にいない西郷どん、なかなか迂闊(うかつ)な人です。月照は各地で転々と匿ってもらいながら、徒歩で薩摩に向かいますが、途中で深刻な問題に出くわします。

 

薩摩藩に入ろうにも、脱藩した右門ではその資格がないのです。有村一人でも残っていれば何とかなるのですが、いないものを思っても仕方ありません、だんだんと幕府の探索が迫る中で月照一行は焦りを募らせていました。

 

 

筑前の快男児、平野次郎国臣が窮地を救う

 

しかし、思わぬところから月照の救いの神が出現します。筑前(ちくぜん)藩士の平野国臣(ひらのくにおみ)が長旅から帰ってきたのです。平野は筑前藩の足軽の子ですが、尊皇の志に厚く、諸国を巡って各地の志士と交友している人物です。

 

大変陽気な奇人で、ちょん(まげ)は日本古来の風習ではないと拒否し総髪にして藩からの出張を終えて江戸から帰る時には、鎌倉時代の武士の衣装を着て笛を吹きながら帰ったそうです。今でいえば、ちょんまげを結い(かみしも)をつけて東京から帰ってくる位に奇妙な姿ですが、それを嬉々としてやるような奇人でした。早速、右門が平野に月照を薩摩まで連れて行ってくれないかと頼むと

 

 

「よござす 参りまっしょ! 清水寺の忍向月照上人(にんこう・げっしょうしょうにん)と言えば、お会いした事はなかばってん、お名前はとうの昔から聞いとりますたい!皆が大変お世話になっておるとですけん、大事にせんばならんお人ですたい」

 

こうして快諾し旅装束も解かないまま月照の隠れ家に向かったのです。そして、月照を醍醐三宝院派(だいごさんぽういんは)の修験僧にコスプレさせ自分は山伏の従者になり弁慶(べんけい)義経(よしつね)安宅関(あたかのせき)のような姿になりました。それでも厳重な薩摩の関所を超える事には苦労しますが、大胆な平野は船頭を脅して、海の難所を通過し薩摩藩内に密入国、なんとか、月照を薩摩藩に入国させたのです。

 

 

薩摩藩に拒絶され、西郷どんと月照は真冬の海に飛び込む

月照と西郷隆盛の入水自殺

 

しかし、苦労して薩摩に入った月照を待っていたのは厳しい現実でした。井伊大老に睨まれる事を恐れた薩摩藩の首脳は、月照を匿う事を拒否、国境の日向送りにすると決定したのです。

 

日向送りとは隠語で「国境いで斬ってしまえ」という意味だとも言われます。一足先に薩摩藩に戻っていた西郷どんは、号泣して月照に詫びます。斉興を追った西郷どんは結局追いつけず薩摩に戻り伝手を頼って、月照助命を懇願しますが、すでに斉彬派は政権から遠ざけられていました。

 

西郷隆盛

 

こうして、何もする事が出来ないで半月、月照が薩摩に入ったと聞き、面目なさでいっぱいになり、やってきたのです。でも月照には、西郷どんを責めるつもりは微塵(みじん)もありませんでした。お互いに出来るだけの事をやり、その結果がこれなのです。

 

西郷どんは、ここまで月照を連れてきた責任として、自分も月照と死ぬ覚悟を固めていました。船で日向に向かう途中、西郷どんと月照は月の冴えわたる真冬の海にお互いに堅く抱き合って身投げしました。

 

ところが、西郷どんと月照が船から落ちた事を知った平野国臣と、坂口周右衛門(さかぐちしゅうえもん)、従者の重助は即座に行動を起こし二人を探します。この時に、坂口周右衛門は、船の帆柱の縄を切って帆を降ろし、また、床板を外して西郷どんと月照が落ちた辺りに投げたので、船は座標を失わず、浮かび上がってきた西郷どんと月照を発見できました。西郷どんは救助されて数日後に息を吹き返しますが、月照の体は冷たいまま、すでに息絶えていたそうです。享年四十六でした。

 

 

西郷どんの人生に影を落とした月照の死

月照の死を悲しむ西郷隆盛

 

生き残った西郷どんは、激しく落ち込み約束に違えて死ねなかった事を、ずっと後悔していたそうです。その後、西郷どんは幕府の追及をかわす為に死んだ事にされて、奄美大島に流される事になります。最初の頃、奄美大島に流された西郷どんは月照を失い、やさぐれて木刀ばかりを振り回していて島の人に警戒されていたとか、、愛加那(あいかな)に出会い、心の安定を得るまでは心の傷は塞がらなかったようです。

 

愛加那

 

月照の死から17年後1874年、西郷どんは月照の十七回忌に参列して号泣し一緒に死ねなかった事を悲しんだと言われています。それまでの陽気で天真爛漫(てんしんらんまん)な人柄だった西郷どんの雰囲気に、一抹の深い影が差すのは、月照の死後の事でした。

 

幕末ライターkawausoの独り言

kawauso編集長

 

月照は幕末の歴史全体では、非常に地味な存在です。それは幕末の前半、桜田門外の変の前に死んだ事が大きいようです。幕末が俄然盛り上がってくるのは、良くも悪くも尊皇攘夷(そんのうじょうい)の志士が京都に上り天誅(てんちゅう)騒ぎや新選組(しんせんぐみ)との激闘、池田屋事件、禁門の変と派手なイベントがたて続けに起きる1863年あたりからで、それ以前に死んでしまうと、どうしても地味な人になります。

 

ですが、こと西郷どん一人に絞れば月照は仕事のパートナーであり苦楽を共にした戦友であり、もしかすると特別な愛情で結ばれた恋人同士だったのであって、師である斉彬や友人である大久保利通(おおくぼとしみち)にも決して負けない存在だったのです。

 

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黒田廉(くろだれん)

黒田廉(くろだれん)

三國志が大好きです。オススメのマンガは曹操を描いた蒼天航路がオススメです。三國志の小説のオススメは宮城谷昌光氏が書いた三國志です。好きな食べ物はマグロ、ぶり、アジが大好きな猫です。

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