井伊直弼は開国を決断した英雄か、安政の大獄で反対派を弾圧した独裁者かで大きく評価が分かれます。これまでの大河ドラマでは井伊直弼を独裁者として、そして悪役としての印象が強く残っていると思います。今回の記事では、最初に井伊直弼の彦根藩での藩主としての評価を取り上げ、大老に就任してから暗殺されるまでの経緯について取り上げます。
この記事の目次
井伊直弼は領民に慕われた名君だった?
井伊直弼が彦根藩主になる前、兄の直亮が藩主でした。直亮は藩主として優秀とは言えず、不真面目な家臣を抱えていました。彦根藩主が直亮から直弼に代わると、藩政改革に取り組みます。直弼は教育に熱心に取り組み、優秀な人材の確保や育成に力を入れました。藩内の視察を行い、貧困で苦しんでいる人に支援を行いました。藩が蓄えた15万両を領民に分配するなど領民から支持されました。
安政の大獄で処刑された吉田松陰は井伊直弼を兄への手紙で次のように書いています。「直弼は憐みのある名君」だとして、松陰は直弼の政治を高く評価しています。
将軍後継者問題で庶民に人気の高い一橋慶喜を退ける
大河ドラマなど幕末を題材にしたドラマでは、一橋慶喜は江戸の町に出て遊んでいる姿を見ると思います。江戸の町にいる庶民に「ケイキ」と呼ばせていました。庶民は一橋慶喜のことを「ケイキ様」として慕うようになります。『徳川慶喜の逸話を紹介―先生が教えない最後の将軍の素顔―』で取り上げたように、大政奉還後の慶喜も「ケイキ様」として静岡市民に慕われていました。
井伊直弼はなぜ庶民に人気の高い一橋慶喜を嫌ったのか。直弼は将軍後継者問題で一橋派と争いましたが、一橋派の島津斉彬らが考えた政治体制を嫌ったと考えられます。
『井伊直弼とは何者?英雄・冷酷な独裁者?』では、島津斉彬らが考えた政治体制について取り上げています。その政治体制とは、徳川慶喜を将軍として国のリーダーとし、外様大名を加えた議会制による政治でした。直弼は江戸幕府開始の頃から続く譜代大名による政治独占を維持するために、反対派を排除しようとしたと考えられます。このことが安政の大獄へとつながりました。
日米修好通商条約を無断締結して尊王攘夷派に恨まれる
『井伊直弼とは何者?英雄・冷酷な独裁者?』では、井伊直弼が無断で条約に締結した経緯について取り上げました。当初、井伊直弼は勅許のない条約調印に反対の立場でしたが、松平忠固は勅許不要であると考え、井伊直弼らの条約調印の反対を押し切り、無断で条約の調印に踏み切りました。
井伊直弼は実は尊王派でした。日米修好通商条約に調印するためにギリギリまで勅許を得ようと努力していました。部屋住み時代に国学に取り組んだことで、尊王の精神を持っていましたが、無断で条約に調印した結果、同じ尊王の水戸藩に恨まれるようになりました。
「戊午の密勅」を巡り水戸藩をイジメ続ける直弼
『井伊直弼の安政の大獄はいつから始まった?時系列で解説』では、安政の大獄で弾圧が激化した出来事として、水戸藩に出された戊午の密勅を取り上げました。その密勅の内容は、孝明天皇が朝廷の許可なく日米修好通商条約を締結した幕府を非難するものでした。
天皇が幕府を通り越して一大名に密勅を出したことで、幕府の面目は丸つぶれになりました。戊午の密勅を受け取った水戸藩は全国に天皇の声明を通達するように命じられましたが、通達を諸藩に出したものの水戸藩に同調する藩はほとんどありませんでした。直弼は水戸藩に密勅が出たことで幕府の面目が丸つぶれになり、弾圧が激化したと考えられます。
安政の大獄で水戸派一網打尽にする
井伊直弼は戊午の密勅を受け、孝明天皇の意志ではなく水戸藩によるものだとみなし、水戸派の弾圧を始めます。水戸派だけでなく、幕府に批判的な人も弾圧の対象になりました。大名や藩士だけでなく、皇族・浪人・学者も弾圧されました。弾圧された学者の中には吉田松陰や頼三樹三郎などが挙げられます。この一連の弾圧が安政の大獄と呼ばれます。
井伊大老への恨みが爆発した桜田門外の変
水戸藩は戊午の密勅で内紛が起こっていました。戊午の密勅を朝廷に返納するか返納に反対するかで対立していましたが、密勅の返納反対派が過激派となり、水戸藩を脱藩します。脱藩した水戸藩士は井伊直弼を暗殺する桜田門外の変を起こします。桜田門外の変後、倒幕に向けて動きます。
幕末ライターオフィス樋口の独り言
今回の記事では井伊直弼が水戸派から暗殺された理由について取り上げました。老中の松平忠固が勅許なしで日米修好通商条約に調印しましたが、井伊直弼は勅許なしで調印することに反対でした。井伊直弼が老中より上の位の大老に就任したことで、無断で条約に調印したとみなされ、水戸派から恨みを買うことになったと考えられます。
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