井伊直弼とは何者?英雄・冷酷な独裁者?

2018年4月13日


 

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井伊直弼

 

井伊直弼(いい なおすけ)について評価が大きく2つに分かれる人物で有名です。

開国を決断した英雄とする評価をする人がいれば、

安政の大獄(あんせいのたいごく)の弾圧に見られるように冷酷な独裁者と評価する人もいます。

 

今回の記事では、最初に独断で日米修好通商条約の調印に踏み切った経緯について取り上げます。

次に、井伊直弼について教科書や大河ドラマで見えてこない実像について取り上げます。

 

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監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。戦略設計から実行までの知見を得るためにBtoBプラットフォーム会社、SEOコンサルティング会社にてWEBディレクターとして従事。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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井伊直弼はどうして独断での日米修好通商条約に踏み切ったのか?

井伊直弼

 

日本史の教科書や大河ドラマでは、

井伊直弼の開国派と徳川斉昭(とくがわ なりあき)の攘夷派の対決の図式が描かれています。

実際、井伊直弼は、アメリカと実力差があるため戦っても勝てないと考え、

いったん開国して貿易をして富を蓄えてから攘夷を行うことを考えていました。

 

当初、井伊直弼は勅許(ちょっきょ)のない条約調印に反対の立場でした。

では、誰が天皇の勅許を得ないで日米修好通商条約に調印したのか気になると思います。

老中の松平忠固(まつだいら ただかた)で、開国派です。

江戸幕府は勅許なく外国との条約に調印してきたので、松平忠固は勅許不要であると考えました。

 

一方で、老中の堀田正睦(ほった まさよし)は朝廷の動向を気にしていたので勅許を得るために上洛しました。

上洛しましたが、勅許が得ることができず、江戸に戻りました。

松平忠固は堀田正睦を見限り、井伊直弼を大老にすることで、

井伊直弼らの条約調印の反対を押し切り、調印に踏み切りました

 

井伊直弼はギリギリまで天皇の勅許を得ようとしていた

井伊直弼

 

井伊直弼は実は尊王派でした。

日米修好通商条約に調印するためにギリギリまで勅許を得ようと努力していました。

なぜ、井伊直弼は尊王派だったのか。

 

直弼が17歳から32歳まで彦根藩の部屋住みとして過ごしたとき、

14男で跡継ぎになる可能性が低く、何もすることがなかったので、

国学・茶道・武術・能楽などに熱心に取り組んでいました。

学問に取り組んだ成果として著書も残したと言われています。

部屋住み時代に国学に取り組んだことで、勅許のない条約調印に慎重になったのかもしれません。

 

西郷どん

 

井伊直弼はどうして将軍後継者問題で水戸派を憎悪したのか?

徳川斉昭

 

『井伊直弼と直虎(なおとら)の関係性は?直虎は先祖なの?』では、

井伊家と江戸幕府の関係について取り上げました。江戸幕府において、

井伊家が大老の半分を輩出するなど江戸幕府の将軍から信頼されてきました。

江戸幕府において政治を仕切っていたのは譜代大名で、

外様大名については江戸幕府の政治に参加することができませんでした。

 

しかし、井伊直弼が大老になった頃、外様大名や下級武士、

朝廷が江戸幕府の政治に参加するようになっていました。

新たに政治に加わった大名では、前水戸藩主徳川斉昭・松平慶永(まつだいら よしなが)春嶽(しゅんがく))、

外様大名では宇和島藩主の伊達宗城(だて むねなり)・薩摩藩主の島津斉彬(しまづ なりあきら)がいます。

阿部正弘

 

一方で、阿部正弘(あべ まさひろ)が様々な大名から意見を求めたことで、幕府の権威が落ちていました。

幕府の権威を取り戻すために安政の大獄という一連の弾圧を始めました

 

戊午の密勅により安政の大獄に踏み切った理由は?

 

井伊直弼は彦根藩の部屋住み時代に国学を勉強しました。

国学とは日本古来の精神を追究する学問で、天皇を尊敬する思想へと発展します。

直弼も天皇に対して尊敬していたと考えられます。

 

『井伊直弼の安政の大獄はいつから始まった?時系列で解説』では、

水戸派の大名らが井伊直弼を牽制するために戊午の密勅(ぼごのみっちょく)が出されました。

水戸派が天皇を政治利用したことで、国学を勉強した直弼にとって看過できなくなり、

安政の大獄の弾圧が激化したと考えられます。

   

最期まで国民国家を受け入れなかった井伊直弼

 

井伊直弼は江戸幕府が開いた頃から続く譜代大名による政治の独占にこだわります。

13代将軍後継者問題について考えます。

直弼は徳川慶福(とくがわ よしとみ)(のちの家茂(いえもち))を血統で推しますが、

もう1つの理由として徳川慶喜(とくがわ よしのぶ)が14代将軍になったときの政治体制を警戒していたと考えられます。

 

その政治体制とは徳川慶喜を将軍として国のリーダーとし、

外様大名を加えた議会制による政治でした。

直弼は江戸幕府開始の頃から続く譜代大名による政治が否定され、

反対派を排除しようとしたと考えられます。

 

幕末ライターオフィス樋口の独り言

 

今回は井伊直弼が英雄か冷酷な独裁者か評価について取り上げました。

今回分かったことは井伊直弼が強引に条約に調印した人物ではなく、

本来勅許のない条約調印に慎重だったということです。

 

松平忠固が勅許のない条約に調印したことと井伊直弼が大老になったことで、

井伊直弼が水戸派から非難される対象になったと考えられます。

直弼は水戸派が天皇を政治利用したことで弾圧に踏み切り、

独裁者という印象が強く残ったと考えられます。

 

今後、井伊直弼だけでなく、開国という決断をした松平忠固についても注目したいと思います。

 

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