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最後の将軍徳川慶喜、その評価が定まらない[理由]

2024年8月24日


 

好評を博しているNHK大河「西郷どん」。この大河ドラマの主人公は西郷隆盛(さいごうたかもり)です。この西郷隆盛は徳川幕府を倒して近代日本を作り上げた英雄として讃えられています。しかし西郷隆盛は簡単に幕府を倒したわけではありません。

 

徳川慶喜に仕える若き渋沢栄一

 

西郷隆盛が倒した徳川幕府の将軍は徳川慶喜(とくがわよしのぶ)です。彼の写真が現存していますが意外とイケメン。イマドキ女子にも人気がありそうな人です。

 

篤姫

 

また徳川慶喜は西郷どんに登場した篤姫(あつひめ)とも深い関係を持っており、今後の西郷どんでもカギを握る人物ともいえるでしょう。西郷どんのカギとなる人物・徳川慶喜ですが、彼の評価は一体どのような評価がされているのか。今回は慶喜の評価について調べてみました。

 

 

監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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徳川慶喜の人生

 

徳川慶喜は日本史の歴史の教科書で知っていると思います。でも徳川慶喜が一体何をした人なのか、思い出せない方が多いと思います。徳川慶喜で一番最初に思い出されることは徳川幕府最後の将軍だった事。二つ目は将軍に就任してから、大政奉還(たいせいほうかん)を行った事。この二つが徳川慶喜が起こした主な出来事と言えるのではないのでしょうか。ではここからは徳川慶喜が起こした決断の一つ・将軍に就任したことからお話していきましょう。

 

 

徳川慶喜実は将軍になりたくなかった??

 

最後の将軍・徳川慶喜。実は将軍になんかなりたくなかったんです。その証左として、徳川慶喜が将軍になることが決まってから、四ヶ月も将軍に就かなったんです。なぜ慶喜は四ヶ月も将軍にならなかったのでしょうか。それは慶喜が将軍になることに反対する人達が居たからです。徳川家茂が亡くなって新将軍を決める際、慶喜反対派の人々は違う人を将軍にするように言っていました。

 

慶喜はこれらの反対意見があることを知っており、もし将軍になっても反対派が自分が行う政策に対してケチをつけたりして政策を実行できなくなる可能性を考慮してため将軍にならなかったのです。しかし慶喜を将軍にしようとする幕府の人々が慶喜反対派の意見を押さえ込んだ事を知って、ようやく将軍に就任。見方を変えれば慶喜は将軍になりたかったわけではないと言えますが、反対派の意見を封じて、政治をやりやすいようにするために将軍になるのを待っていたと見るのが正解ではないのでしょうか。

 

 

 

大政奉還は何が狙いだったの??

 

徳川慶喜は将軍時代、思い切った決断をしています。それは大政奉還です。え??大政奉還ってなんの事??ってなりませんか。ちょっとここで大政奉還を簡単に説明します。

 

大政奉還とは徳川慶喜が日本で内乱が起きる事を避けるため、幕府が持っている政権を朝廷に返上した事です。かなりざっくりと大政奉還について説明しました。でも徳川慶喜はどうして日本で内乱が起きるような状況だと思ったのか。また内乱を起こしてはどうしてダメだったのでしょうか。まずは日本で内乱が起きそうな状況になった事からお話します。

 

 

日本が内乱になりそうな気配だったのは薩長が原因!?

 

薩摩(さつま)藩と長州(ちょうしゅう)藩は徳川幕府を倒そうと考えていました。しかし両藩は独力で徳川幕府に対抗できませんでした。そこで坂本龍馬(さかもとりょうま)を仲介にして両藩は同盟し、一緒に徳川幕府を倒すことにします。

 

 

長崎で亀山社中を結成する坂本龍馬

 

こうして両藩は幕府を倒すための仲間集めを行います。その結果、龍馬の出身藩・土佐が倒幕に参加すると色々な藩がこぞって薩長に味方してくるのでした。徳川慶喜は薩長が幕府を倒すための軍事行動がいつ起きてもおかしくない状況を知り、大政奉還を行う決断をしたのです。では次に日本で内乱を起こしてはダメな理由をご紹介します。

 

 

日本で内乱が起きるとダメなのか!?

 

日本は国内でいくつも戦をしていた時代があります。例えば戦国時代。この時は各地の大名達が争って領土拡大を行っていた時代で、誰も大名達が争っている事にたいして反対していません。でも徳川慶喜はどうして日本の国内で戦を起こしてはいけないと考えたのでしょう。それは幕末に諸外国が日本に介入したからです。

 

ペリーの黒船来航を見ちゃった坂本龍馬

 

幕府はアメリカからやってきたペリーの艦隊に度肝を抜かして、条約を結ぶことになります。

 

 

 

アメリカのやり方を知った諸外国は、日本と条約を結ぶとき大きな戦艦をちらつかせて、幕府を脅迫するような形で諸外国に有利な条約を結んでいます。徳川慶喜は諸外国の軍艦を見て、もし日本で内乱が起きれば、諸外国から理由をつけて内乱に介入され、日本の国土に侵入されるかもしれないと考えたからです。

 

そのため徳川慶喜は日本で内乱を起こさないようにするため、倒幕派の薩長の目論見を潰すにはどうすればいいのか考えます。その結果、薩長が幕府を倒そうとする目的がなくなれば、日本で内乱が起きることも無くなり、諸外国から介入されることもなく国土を保全することができると考えます。徳川慶喜は上記の事柄を狙って大政奉還を行ったと言えるでしょう。

 

 

明治維新の後何をして過ごしていたの

 

徳川慶喜はこれらの決断を行い日本の歴史にその名を残し、徳川幕府が無くなった後普通の人として生活をすることになります。さて徳川慶喜は普通の人になりますが一体何をしていたのでしょう。徳川慶喜には色々な趣味がありました。例えば徳川幕府が存続していた時、手裏剣に興味を持ち、達人レベルにまで到達していました。

 

また徳川慶喜は隠居してからは徳川ゆかりの地静岡に住んでおり絵師から油絵の書き方を押してもらい、西洋風景などを書いていたそうです。慶喜が書いた西洋風景の油絵は現在でも美術館に保管されています。さらに慶喜は奥さんと一緒に港へ言って漁を行って、夫婦水入らずの生活を送っていたようです。そして徳川慶喜は写真を撮る趣味もあり、慶喜が撮影した写真も当時かなりの腕前だったそうです。このように徳川慶喜は多種多様な趣味をしながら余生を送っていました。

 

 

日本史ライター黒田レンの独り言

 

色々な趣味を持ってた徳川慶喜は、72歳でこの世を去ります。彼のお墓は上野の谷中墓地に有り、興味がある方は見に行ってみてください。さて彼の評価は一体どのようなのか。主に二つに分かれています。

 

一つ目は徳川幕府を見捨てた臆病者等マイナスイメージの評価。二つ目は日本で内戦を行わないようにするために徳川幕府を捨てて、日本の統一国家誕生に寄与したプラスイメージの評価。レンは徳川慶喜にはプラスイメージの評価を持っていますが、皆様はどのようなイメージを持っていますか。

 

参考 中公新書 徳川慶喜 松浦玲著など

 

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黒田廉(くろだれん)

黒田廉(くろだれん)

三國志が大好きです。オススメのマンガは曹操を描いた蒼天航路がオススメです。三國志の小説のオススメは宮城谷昌光氏が書いた三國志です。好きな食べ物はマグロ、ぶり、アジが大好きな猫です。

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