【5分で丸わかり】西郷隆盛とはどんな人?2018年の大河ドラマ「西郷どん」の生涯

2016年9月9日


 

はじめての三国志コメント機能バナー115-11_bnr1枠なし

西郷隆盛 ゆるキャラ

 

2018年度のNHK大河ドラマは、維新の三傑の一人、西郷隆盛に決まりました。

主演は堤真一さん(その後、鈴木亮平に変更)ですが、

剣と槍と鉄砲の戦国時代に比較して思想が入り込む、幕末維新は難解なせいか敬遠され、

視聴率で惨敗するケースも多いです。

そこで、はじさんでは、大河の主人公、西郷隆盛について5分で解説します。

 

監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。戦略設計から実行までの知見を得るためにBtoBプラットフォーム会社、SEOコンサルティング会社にてWEBディレクターとして従事。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


【誤植・誤字脱字の報告】 バナー 誤字脱字 報告 330 x 100



【レポート・論文で引用する場合の留意事項】 はじめての三国志レポート引用について



薩摩藩の下級武士の家に生まれる

鹿児島

 

西郷隆盛は、1828年1月23日、薩摩国の鹿児島城下加治屋町に生まれます。

父は御勘定方小頭の西郷九郎隆盛と言い貧しい下級武士でした。

西郷と父の名前が同じなのに気付きますが、実は西郷の名前は本当は隆永です。

しかし、後に名前を明治政府に登録する際に知人が間違って父親の名前で

届けてしまい、それを訂正しないでそのままになったのです。

 

当時の西郷は、本名よりも通称の吉之助で通っていたので、

知人も本名が出て来ず、うるおぼえで出したら父親の名だったのです。

でも、それを訂正しようともしない西郷も呑気というか凄いです。

 



西郷、農政官僚になるも相次ぐ肉親の死で困窮する

 

1844年、西郷は16歳で郡方(こおりがた)書役助をつとめます。

この地位は、地方の農政を司る事務職です。

西郷は農政家として人生をスタートさせる事になります。

1851年、薩摩藩で長らく藩政を牛耳っていた藩主、島津斉興(なりおき)が隠居し

長男であった島津斉彬(なりあきら)が41歳という遅咲きで藩主の座に就きました。

 

同じころ、西郷は祖父、父、母を相次いで亡くします。

それにより、西郷には家を支える負担が一気に掛るようになります。

父が死んだ事で収入も激減し、西郷家は貧窮に喘ぎました。

 

西郷の意見書が藩主島津斉彬の目に止まる

 

1853年、6月3日、江戸の浦賀にアメリカ東インド艦隊を率いる

ペリーが来航し幕府に開国を迫り武力に押された幕府はこれを了承しました。

国内は騒然とし武力で強引に国を開かせたアメリカと弱腰の幕府に対する不満が噴出、

それがやがて、幕府を倒し、真の主である天皇の政治を実現し無礼な西洋人を

追い払うという尊王攘夷運動に発展します。

 

西郷はこの頃、薩摩藩に農政に関する意見書を提出、それが藩主斉彬の目に止まり、

西郷の有能さを知った斉彬は、1854年、西郷を江戸参勤に同行させる事になります。

ここで、斉彬の知遇を得て、江戸に上った事が西郷の運命を大きく変えます。

 

島津斉彬のお庭番として、大アジア同盟の実現に奔走する・・

 

西郷は江戸では、斉彬のお庭番の扱いを受けていました。

お庭番というと、庭の手入れでもしそうですが、そうではありません。

この仕事は私的な斉彬の秘書として、様々な仕事を請け負う立場であり、

身分の低い西郷は、こうでもしないと斉彬と直接会う事は出来なかったのです。

 

島津斉彬は、幕末を代表する英明な藩主であり進んで西洋の最新技術を

取り入れて日本を近代化する進取の精神に富んでいました。

さらに西洋の猿真似ではなく、その科学技術を容れて日本を近代化し、

加えて、朝鮮、中国とも同盟を結んでアジア連合を形成し西洋による

アジア植民地化を阻止しようという壮大な構想の持ち主でした。

 

西郷は斉彬に直接に世界情勢、日本の進路を習い自らも学び、

大人物へと成長していくのです。

 

斉彬急死・・西郷の受難の時代が始まる

 

 

斉彬の構想は大アジア同盟を実現する為に英明の誉れ高い水戸藩の

一橋慶喜(よしのぶ)を14代将軍に立てて、各地の有力な大名が

合議体を結成して開国しようというもので一種の統一国家構想でした。

 

西郷は大っぴらには動けない斉彬に代わり各地で奔走し人脈を築いていきます。

しかし将軍に一橋慶喜を擁立する計画は敗れ、将軍には彦根藩主の

井伊直弼(なおすけ)等が推す紀州藩出身の徳川家茂(いえもち)が決まります。

おまけに、西郷の後ろ盾だった斉彬は1858年、鹿児島天保山で

軍事訓練の最中に腹痛を訴え、そのまま急死してしまいます。(毒殺説あり)

 

西郷は斉彬を失い悲観の余り、切腹して後を追おうとしますが、

仲間の僧、月照(げっしょう)の説得で思いとどまり、大老に就任した

井伊直弼を排除する運動を展開しますが、それが井伊に知られる事になり

安政の大獄(たいごく)に繋がります。

 

西郷、逆風の中で二度の島流しを経験する

 

井伊直弼は大老として日米修好通商条約に調印しましたが、

攘夷にこだわる朝廷を説得せず独断で決定しました。

 

結局開国したのだから、島津斉彬の考えと大差ないように思いますが

斉彬の構想が力のある有力大名の連合であるのに対して、

井伊直弼は政権を幕府が握り諸藩は参加させない構えでした。

 

井伊は攘夷運動を幕府批判により政権転覆を図るものだと厳しく

弾圧、これにより吉田松陰(しょういん)、橋本佐内(さない)、

梅田雲浜(うんびん)のような有望な人物が次々と捕らわれて

斬首され、西郷も彼等と親しい事でマークされます。

薩摩藩は追求を恐れ西郷を死んだ事にして奄美大島に流してしまいます。

 

その後、西郷は薩摩藩の実権を握った藩父、島津久光(ひさみつ)により呼び戻されます。

そこには、西郷の親友、大久保一蔵(利通:としみち)の働きかけがありました。

久光は斉彬のような雄大な思想はありませんでしたが、幕末の動乱を利用して

藩の勢力を伸ばそうと考え、京と江戸に太いパイプがある西郷を抜擢します。

しかし、西郷は久光を斉彬毒殺の首謀者と見做して嫌っていて、

久光も西郷を胡散臭く思っており、西郷が久光の命令に背いた事を理由に

今度は沖永良部島に罪人として流します。

 

西郷、禁門の変前後に表舞台に返り咲く

 

沖永良部での西郷は本格的な罪人であり、劣悪な環境に放置され、

死にかけますが、島の人々の献身的な保護により健康を回復します。

その間にも時代は動き、幕府が結んだ不平等条約により日本から金が

流れ出し、物価が暴騰する中で尊王攘夷運動は激しさを増します。

 

島津久光は幕府側に与していましたが、世情に疎い守旧派では、

世の中の動きに対応できないので、人事を刷新し藩内の攘夷派を抜擢して、

中央に置ける薩摩藩の影響力を拡大させようとします。

 

そこで、小松帯刀(たてわき)や大久保一蔵は、再び、西郷の中央との

パイプを強調し、久光は渋々、西郷を沖永良部から呼び戻します。

戻った西郷は、没落しつつある幕府とは距離を取りながらも、

過激な攘夷運動を決行する長州藩を阻止する行動を取る事になります。

それが1864年7月19日の禁門の変でした。

 

長州藩は尊王攘夷運動の急先鋒であり、外国船に砲撃するなど

単独でも攘夷を決行していました。

攘夷は物理的に不可能と考える幕府には目の上のタンコブだったのです。

そこで、幕府は薩摩・会津と組んで策謀し長州藩を京都の御所の

警備から外し追放してしまったのです。

 

影響力を失った長州藩攘夷派は追いつめられ、兵を起こして天皇を拉致し

長州に連れ去ろうと、御所の門を守る会津や薩摩、各藩の藩兵と激突、

西郷は中立の立場でしたが長州の猛攻に各藩に救援を出さざるを

得なくなり結果的に長州を撃退するのに貢献します。

 

しかし、その為に久坂玄端(げんずい)、来島又兵衛という有志を失った

長州は、以来、激しく薩摩と会津を恨むようになります。

 

二度の長州征伐、そして薩長同盟、討幕へ・・

 

長州藩の没落を知った幕府は、この機会に長州を滅ぼそうと

西国二十一藩を動員し、15万の兵力で第一次長州征伐を決行します。

この頃、長州藩は、それまでの外国船砲撃の報復として、アメリカ、

フランス、オランダ、イギリスの四カ国艦隊による攻撃を受け

壊滅的な打撃を受けてしまい、八方塞がりの窮地に陥りました。

 

薩摩藩も長州征伐軍に参加しますが、その途中、

西郷は大阪で幕臣の勝海舟(かつかいしゅう)に会い、

 

「幕府と長州の戦は私闘に過ぎず、

これで得をするのは西洋ばかりである」と説明されます。

 

そして、幕府はもう長くないので、天皇を中心に才能ある人間を

身分の区別なく登用して新政府を造るべきだと主張。

幕臣でありながら日本を第一に考える勝の主張に西郷は納得し、

長州征伐後は穏便な措置を取り長州藩が解体されないように配慮します。

 

長州征伐後、長州藩は幕府に忠誠を誓う守旧派に占められますが、

倒幕派の高杉晋作がクーデターを決行して成功、藩政を倒幕派の手に

取り戻す事に成功します。

 

その頃、坂本竜馬や中岡慎太郎は、犬猿の仲と言われた薩摩藩と

長州藩の軍事同盟を画策します、長州には禁門の変の恨みがあり、

薩摩にも慎重派が多い状態でしたが長州藩の代表、桂小五郎と

西郷隆盛は恨みを捨てて秘密軍事同盟を締結、これが薩長同盟で、

取りも直さず倒幕の為の同盟でした。

 

そうとは知らない幕府は、長州藩の主権が倒幕派に握られた事を知ると

第二次長州征伐の軍を起こしますが、今度は薩摩が参加せず、

軍事費の負担で西国諸藩は不満だらけ士気も最低で装備も旧式でした。

 

一方の長州は薩摩から購入した新式銃で武装した民兵組織、奇兵隊が

ゲリラ活動を展開して幕府軍を翻弄、幕府は14代将軍家茂の死去を

理由に兵を引き揚げます、これにより幕府の権威は地に落ちました。

 

倒幕、王政復古の大号令、戊辰戦争

 

西郷は、武力討幕を決行すべく土佐と武力討伐の密約を結びます。

しかし、15代将軍徳川慶喜は、その前に大政奉還によって政権を朝廷に返します。

ですが、その真意は、やがて朝廷が政権運営を投げだすのを待ち、

自身が徳川家代表として事態を収拾し権力を取り戻す考えでした。

 

西郷は梯子を外された形ですが、さらに朝廷工作を行い、ついに、

徳川慶喜の一派を新政府から追放する王政復古の大号令を出させました。

納得できない旧幕府強硬派は、西郷の挑発に乗り鳥羽伏見において

官軍と激突、鳥羽伏見の戦いが起こります。

これで旧幕府は天皇に弓を引く朝敵になり士気は低下し敗北しました。

官軍は、江戸城に迫り、勝海舟と西郷隆盛の会見により江戸城は無血開城し、

1868年4月11日、264年続いた徳川幕府は名実共に滅亡します。

 

戦争はさらに北へと続き奥羽戦争になりますが、明治二年、5月17日に

函館五稜郭に立て籠もった旧幕臣、榎本武揚が降伏する事で完全に終結します。

 

腐敗していく明治政府に永遠の改革者西郷は苦悩する

鹿児島

 

西郷は、一時、鹿児島に戻り戦後処理をしていましたが、

僅かな期間の間に新政府が腐敗して汚職が横行している事を知ります。

明治維新で掲げた世直しは、生活に苦しむ庶民を救い天皇の下で万民が

安心して暮らせる世の中を造る事でした。

 

その為に、時には汚い工作まで行い幕府を倒したのに、これでは、

死んで行った同志が浮かばれないと西郷は衝撃を受けます。

 

庶民の不満が募っているのを恐れた新政府は西郷を招聘し

政治腐敗の綱紀粛正に取り組む事になります。

農政官僚として出発し、自身も極貧生活を体験した西郷は

本気で万民が安心して暮らせる社会を造ろうとした永遠の改革者でした。

 

征韓論を巡り明治政府と対立、西南戦争で戦死する

 

明治4年11月、大久保利通、岩倉具視(ともみ)、木戸孝允(たかよし)等の

政府首脳が海外視察の為に集団で日本を離れると、留守組になった西郷や

江藤新平、板垣退助、副島種臣(たねおみ)は精力的に新政府の基礎作りを推進します。

その中には、陸海軍の設置や、徴兵制、義務教育制の施行、国立銀行の設置や、

藩の統廃合による行政のスリム化、信教の自由の保障や司法制度の拡充など

物見遊山の岩倉遣欧使節団などより100倍有益な仕事がありました。

 

その中で、明治維新を契機に友好関係がこじれた李氏朝鮮との問題があり

政府には一方的に国交を断絶した李氏朝鮮を討伐すべしという

征韓の考えも出ていました。

 

しかし、西郷は師である島津斉彬の大アジア同盟を実現すべく、

単身で朝鮮に渡り近代化の必要性を説いて説得すると主張して、

征韓論を抑えて、一時は天皇の許可も出ていました。

 

ところが国内で自分の居場所が無くなる事に恐れを抱いた大久保は

急遽帰国し、自分達海外組の意見を聞かないで朝鮮との関係を

進める事に反対、とうとう西郷の意見は却下されます。

失望した西郷は政府を辞職、多くの人々が大久保達、

海外組のやり方に反発して辞職していきました。

 

大久保は朝鮮問題よりも今は国内問題が重要と言いながら、

明治9年には、ペリーがかつてしたように朝鮮に軍艦を派遣して

不平等条約を結ばせ、一方では大久保の独裁に反対する士族の

反乱を冷酷に鎮圧していきました。

 

西郷は武力で弱国に言う事を聞かせる帝国主義ではなく、

アジアは連合して西洋に対抗する東洋王道をゆくべきと主張し、

明治10年、2月15日、ついに決起し自らが造り上げた明治政府に反旗を翻します。

しかし、四万を数えた西郷軍でも、明治政府を打倒できず敗北、、

9月24日、西郷は城山で自刃し満49年の生涯を閉じました。

 

幕末維新ライターkawausoの独り言

kawauso 三国志

 

西郷は、立場上、様々な謀略に関わりましたが、明治維新以後は、

一切の謀略を行わず、誠心誠意をもって事態の打開を図ります。

それが天下万民が幸せに暮らせると信じた維新へのケジメでしたが

実際の日本は、西郷の願い虚しく西洋を真似してアジアに

植民地を持つ方向に走って行ってしまいました。

日本、朝鮮、中国が揃って近代化し東洋の王道精神を持って、

西洋の植民地支配に対抗する、それは実現不可能な理想論だったのでしょうか?

2018年のNHK 大河を楽しみにしたいと思います。

 

関連記事:劉備と西郷隆盛の共通点って何?

 

西郷どん

 

 

 

  • この記事を書いた人
  • 最新記事
はじめての三国志 プロフィール画像

はじめての三国志

「ゆるく、たのしく、わかりやすく」をコンセプトにした 歴史エンタメメディアです。
(®登録商標:第5800679号)

-西郷どん
-, , , , , , , , , , , , , , , , ,