日本の歴史では、源平合戦と太平記と幕末で出番が多い天皇。その影響力は爆発的で、ほとんど理屈抜きに政治を左右する存在です。特に幕末では、力で圧倒的に優位な幕府が非力な天皇にペコペコするのを不思議に思った人もいるのではないでしょうか?
そこで今回は、知っているようで知らない天皇を簡単に解説します。
この記事の目次
古代 天皇の誕生
ざっくり言いますと、天皇の誕生は4~5世紀に遡ります。当時の日本で一番文化が進んでいた畿内で幾つも存在した豪族の中からもっとも勢力が強かった豪族の家が、やがて豪族連合の代表として君臨しそれが大和朝廷になったと考えられます。
5世紀には、大和朝廷は南北朝時代の中国に使いを送り倭の五王として履中天皇、反正天皇、允恭天皇、安康天皇、雄略天皇等が推定されています。ただし、当時は天皇号はなく大王でした。天皇と皇帝は同じ意味であり、中国への遠慮から対外的には使えなかったのです。天皇号は7世紀初頭、聖徳太子が隋の煬帝に当てた公文書に出るのが最初です。
その後、大和朝廷は豪族の中から勢力を伸ばした物部氏と蘇我氏に勢力が二分されて騒乱の状態になりますが、蘇我馬子が物部守屋を滅ぼします。蘇我氏は娘を天皇の妃にするなどして外戚となり皇室を超える権勢を奮いますが、馬子の孫の入鹿の時代に大化の改新が起き、入鹿は中大兄皇子と中臣鎌足に暗殺され、実権は再び天皇の手に取り戻されます。中大兄皇子は後に天智天皇として即位しました。
唐と新羅への脅威から統一国家が生まれる
天智天皇が即位した頃、日本は白村江の戦いで唐と新羅の連合軍に敗れ朝鮮半島にあった友好国の百済を失いました。さらに唐と新羅の連合軍は日本侵略を開始する恐れがあったので、天皇は律令制を積極的に導入して、天皇の下への権力集中を進めます。
この時代に国家の軍隊である防人が組織され沿岸の警備に当たり豪族や王族が私有していた土地と人民が返還され天皇の下に集められます。こうして、公地公民が確立し古代日本は統一されたのです。しかし、警戒された唐と新羅の侵略は、新羅と唐の関係が悪化し侵略の恐れが消えると律令は弛緩していきました。
藤原氏の栄華 摂関政治
奈良時代も終わりに入ると、大化の改新の功臣である中臣鎌足の子孫の藤原氏が勢力を伸ばしていきます。やり方は蘇我氏の時代と同じで、娘を天皇に嫁がせて外戚となり、さらに娘が子供を産むと、こちらを天皇にする事で一門を摂政関白、太政大臣へと引き立てて行き、権力を保持するのです。
藤原氏の絶頂は11世紀初期の藤原道長(北家)の時代で道長は娘と次々と天皇の中宮にしていき、御一条天皇、御朱雀天皇、御冷泉天皇の外祖父になるなど他の貴族を大きく引き離し、我が世の春を謳歌しました。この時代、公地公民の原則は崩れ墾田永年私財法により開墾地の私有が認められると、寺院や貴族勢力の大規模開墾が進んでいき、それらの大土地所有者は政治に介入して不輸・不入の権を認めさせます。
この権利は大貴族や寺院の租税を免除し、役人の調査を拒む権利でありそれを見た農民や小豪族は、争って土地を寺院や貴族に寄進して国の租税を免れるようになります、荘園の誕生です。土地と人民を天皇に集中する中央集権は公地公民の崩壊で終結しました。しかし、藤原氏の栄華も道長・頼通の時代で翳りを見せます。天皇に娘を嫁がせても、男児が生まれなくなり影響力が落ちたのです。
上皇による院政と武士の台頭
後三条天皇の後を継いだ白河天皇は、摂関政治で雁字搦めの天皇の地位を厭い幼少の息子に譲位して自身は上皇になりました。これが院政の始まりで、上皇の権限は律令にも規定がない自由なもので上皇は気に入りの寵臣をブレーンにして大きな権力を奮う事になります。特に白河上皇は治天の君と呼ばれ、藤原氏以上の強大な権限を奮いました。が、抑えつけられた天皇と上皇の確執は保元・平治の乱のような動乱を産み、それぞれが武力装置として利用した武士の勢力の台頭を許します。
元々は下賤の者として昇殿も許されなかった伊勢平氏の棟梁平清盛は二つの乱を制しライバルの源氏を崩壊寸前に追い込むと娘を天皇の妃にして外祖父になり、武士として初めて太政大臣になり天下を支配します。
平家の天下は二十年程で源氏に取って変わられ鎌倉幕府が成立、源頼朝は守護・地頭の制度を置いて手柄を立てた御家人に天皇の許可なく勝手に領地を与えていきます。それは、全国の荘園に御家人が武力を背景に分け入る事を意味しますが武力をもたない天皇や貴族は打つ手がありませんでした。こうして、御恩と奉公を軸とした武家社会が出来、日本は中央集権から、封建制へと移行していきます。
その後も天皇は、武家から権力を奪い返そうと承久の乱や建武の新政などを起こしますが、いずれも短期間に終り武家政権の権限が強化されるだけでした。
室町幕府の時代に入ると、南北朝を解消した3代将軍の足利義満は、治天の君、光厳上皇の勢力を削ぐ事に尽力する事になり、次の後円融上皇の時代で院政は、ほとんど無力化しました。
戦国時代 窮乏する天皇
室町幕府が天皇の政治に介入した事で両者は密接に結びつきます。それは室町幕府の没落が天皇の没落とイコールである事を意味しました。応仁の乱では、後花園天皇の御所が焼かれて将軍の館、室町第に避難する等、天皇と将軍が同じ敷地内で共同生活をする場面もありました。
応仁の乱後の将軍位を巡るゴタゴタで室町将軍の権力が低下し、守護大名や国人衆が勝手に領地を広げようとする戦国時代に入ると公卿が地方に逃げていき、天皇は地方の所領から年貢を得る事も出来ず、皇室の経費を大名や将軍からの献金で賄うようになります。
天皇の生活は窮乏を極め、築地塀が崩れても修理も出来ず、毎日の食事は侍臣達がズタ袋を持って市中を歩き施しを願う程でしたが一切の権力を失った天皇は、逆に戦乱に苦しむ人々の姿がよく見えるようになり民の苦しみを我が不徳の責任とし、民の為に祈る事を重視し身を律する現在の天皇像に繋がるイメージが確立されていきました。これは、権力を握る事で腐敗し民衆を顧みなくなる、時の権力と対照を為し権力の目の届かない人々、権力に見捨てられた人々に目を向ける形で天皇の仕事として現在まで連綿と続いているのです。
戦国時代も後期になると経済力を背景に京都に入った織田信長は窮乏した皇室に対して多額の献金をする一方で、その権威を利用します。後継者の豊臣秀吉も皇室を厚遇する事で自身の権威づけに利用しました。これにより天皇の権威は一時、大きく回復する事になります。
江戸時代 再び封じ込められる天皇
豊臣氏を滅ぼして天下を取った徳川家康は、織田や豊臣と違い幕府を京都から離れた江戸において天皇から距離を取ります。そして、1万石(後3万石)程度の禁裏御料を定めて食い扶持を保証する一方、禁中並公家諸法度を制定して、天皇や公卿が政治に介入する事を禁止し天皇は学問と芸事に励む事が規定されるのです。
逆に、どんなに学問や芸事に押し込められても征夷大将軍を含め、各地の大名に官位を与えるのは天皇でした。また幕府が統治の為に導入した朱子学は仕える対象を誰とするか?という正統論が眼目にあり、江戸時代も中期になると武士が忠誠を尽くすべきは第一に天皇であるという認識が主流になっていきます。
これには徳川幕府が生み出した空前の平和が影響していました。戦争がなくなる事で学問が奨励され尊王論は知識人階級である武士にあまねく広がっていく事に繋がったのです。これが尊王の源流であり、幕府はこれに対抗すべく大政委任論を生み出し日本の支配者は天皇ではあるが、幕府は政治を委任された存在であるから、天皇に代わり日本を安定して統治するのが天皇への忠義であるとして、尊王論に対抗していきますが、これは幕府権力は天皇よりの借物という事実を認めた事にもなりました。
幕末 再び前面に押し出される天皇
天皇が閉じ込められた存在から解放されるのはペリー来航以後です。外国の圧力に屈して日米和親条約を締結し、国内の求心力が落ちた幕府は、皇室の威光を借りようと軽い気持ちで、通商条約である日米修好通商条約の許可を天皇に求めます。どうせ天皇に外交は分かるまい「そうせい」と丸投げだろうと高を括った幕府ですが、意に反して幕府に不満を持つ尊攘派の画策もあり天皇は条約の許可を出しませんでした。
追い詰められた幕府は、やむなく独断で条約を結び、激高した尊攘派との対立が激化し安政の大獄が発生、その後、幕府は大老井伊直弼が暗殺されさらに権力が弱体化し、かつては抑えつけていた天皇に縋り延命を図ります。もちろん、「攘夷は天皇のご意志だ」と叫ぶ尊攘派も天皇を利用しようとし天皇の権威は幕府を遥かに凌ぐようになってしまうのです。
尊攘派の代表となった薩摩と長州は最後に天皇を握って官軍になり、幕府は最後の将軍、徳川慶喜が鳥羽伏見の戦いの敗戦により謝罪恭順し江戸城は無血開城され、260年続いた徳川幕府は崩壊します。
明治以後 立憲君主となった天皇
明治政府は、天皇が政治の主体だった天智天皇の時代に戻る形で、王政復古を行い、大蔵省や兵部省など古めかしい律令の役職を復活させますが同時に国民国家として生まれ変わるべく、西洋から新思想や政治体制を導入有司専制から自由民権運動を経て、1890年には帝国議会が開かれ当時としては画期的な三権分立が確定されます。
同時に大日本帝国憲法が発布され、天皇は国家元首となりました。政治基盤が弱かった維新政府はそれまで御所の奥にいた天皇を外に出し西洋式の軍服を着せて威厳を持たせ、日本全国を巡幸させています。明治天皇は即位の時は、15歳と若く颯爽とした天皇のイメージは新国家の誕生を国民に印象づける事になります。
また、明治から大東亜戦争敗戦までの天皇を専制君主とする論調が昔からありますが、それは正しくありません。明治憲法下でも天皇の命令には、内閣の助言と承認が必要であり、天皇が独断で命令を出したり内閣の決定を拒否する権限はないのです。
象徴となった天皇
敗戦によって天皇は富国強兵のシンボルから日本再生のシンボルに変化します。軍服を脱いだ昭和天皇は背広姿になり、敗戦で荒廃した日本全国を巡幸し国民の辛苦に同情し、労働をねぎらい励ます役割になります。
それは昭和21年から29年まで8年間続き、全行程は33000キロ、一日の移動距離は200キロという強行軍でした。天災に打ちひしがれた人々や、社会的に弱い立場の人々を慰め励まし、社会の注意を喚起する為の活動は、今上天皇にも引き継がれ、今では天皇の最も重要な公務になっています。
同時に、かつて征夷大将軍を任命したように天皇は内閣総理大臣や、国務大臣、最高裁判事、諸外国の公使を任命する権限を持っています。もちろん勝手に出来るわけではなく国会で決めた事を承認するわけですがこのような国事行為は外国では元首が行うのが普通であり現在でも、天皇は国民統合の象徴であり、日本の代表であり続けているのです。
どうして天皇は滅ぼされなかったのか?
歴史上、古代と天智天皇の時代、院政の頃以外には、非力な存在だった天皇はどうして滅ぼされなかったのでしょうか?その答えは、日本がほぼ単一民族であった為です。物部氏にしても蘇我氏にしても、藤原氏にしても、あるいは源氏も平家も、皆、大昔からの天皇の家来でした。物部氏や蘇我氏、藤原氏は神話の中に自分の先祖を持ちます。源氏も平家も、それぞれ桓武天皇や清和天皇の皇子をその祖先として発展したのです。
彼らが天皇を滅ぼすのは、例えば月が太陽を滅ぼすようなものでその瞬間に月は神々しい輝きを失います。彼らがいかに天皇を邪険にしても滅ぼさないのは、そうすれば、結局自分達が滅びる事を理解しているからです。
なので、天皇とは無関係な、例えば元寇が成功していれば、天皇は蒙古軍により捕らえられ一族皆殺しにされたかも知れません。その時には、後の日本の歴史は今とは全く違う中国のような大流血を伴う易姓革命の時代に変化していたかも知れませんね。
幕末ライターkawausoの独り言
天皇の誕生から、現在までをかなりざっくりと書いてみました。どうして天皇が日本の歴史に重大な役割を果たしたのか?その参考になったのなら幸いです。
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