『橋本左内の書籍にはどんなものがあるの?』では、高校の日本史の授業では、一橋派の松平春嶽の側近であったこと、適塾の塾生だった・梅田雲浜(小浜藩)横井小楠(熊本藩)らや藤田東湖(水戸藩)・西郷隆盛(薩摩藩)交流していたこと、25歳で安政の大獄により斬首されたことについて取り上げられ、ほとんどの人は耳にしたと思います。
橋本左内について日本史の教科書の脚注に載っている程度であることを紹介しましたが、左内の書籍『啓発録』については高校の教科書でほとんど取り上げられることがありませんでした。書籍だけでなく左内の写真も教科書に載っていないため、知る機会がないと思われます。ここでは、橋本左内の写真が存在するのかどうか、橋本左内の書籍だけではなく意外な特技も取り上げます。
この記事の目次
橋本左内には写真が存在するの?
橋本左内には写真が存在しません。安政の大獄で1859年に処刑されましたが、その7年後に幼馴染の佐々木長淳が描いた肖像画が残っています。橋本左内の顔など表情についてはその肖像画しかありません。肖像画が似ているのかどうか気になると思いますが、次節にて取り上げます。
佐々木長淳が描いた肖像画は似ているの?
橋本左内が処刑されて7年後、左内の母親から幼馴染の佐々木長淳に肖像画を描いてほしいという依頼がありました。当初、佐々木は真実に近い肖像画を描くことができないという理由で依頼を断ります。依頼を断られても、左内の母親は親友であれば満足しますと佐々木に懇願し、佐々木は肖像画を描くことを決めました。
肖像画を描く際、母親と弟の骨格を参考にしたと言われています。佐々木は肖像画を描きますが、橋本左内を知る人の中には似ていないと言っている人がいるらしく、本当に橋本左内の肖像画であるのかどうか評価が分かれています。
左内を描いた佐々木長淳とはどんな人?
佐々木長淳は橋本左内と同じ福井藩士です。1857年、洋式兵器の技術者として福井藩の製造方大砲小銃火薬船舶頭取になります。その後、明治維新後の1873年にウィーン万国博覧会に派遣され、養蚕技術を学びました。翌年に日本に帰国して、養蚕技術を導入した人物として知られています。著書には『蚕の夢』や『微粒子病の顛末』などカイコに関するものが残されています。
橋本左内は写真映えするような人?
橋本左内の記録について、藩学明道館の幹事・堤正誼の『橋本左内言行録』で残されています。ここでは『橋本左内言行録』を基に橋本左内について取り上げます。橋本左内は身長151cmだったということで、江戸時代の男性の平均的な身長と言えます。
色が白く痩せていて、女性のような容姿であったことがよく知られています。当時、写真技術が導入された頃の武士の姿は気迫が感じられましたが、橋本左内の写真がない理由として、容姿から気迫のある武士の姿を出すことができなかったのか当時の写真技術でうまく編集できなかったことが考えられます。
橋本左内の特技はモノマネ?
『橋本左内の書籍にはどんなものがあるの?』で取り上げた書籍『啓発録』では、15歳の青年が自らの生き方を示していて、現在ビジネス書で注目されていることから、自他ともに厳しい人物という印象を受けるかもしれません。意外な性格として、冗談や洒落などを言って他人を笑わせていたという記録も残っています。交流のあった福井藩の中根雪江や薩摩藩の西郷隆盛のモノマネをしていたという意外なエピソードも残されています。
幕末ライターオフィス樋口の独り言
この記事では橋本左内の肖像画と特技のモノマネについて取り上げました。2018年の大河ドラマ『西郷どん』で、特技のモノマネを披露するかどうかに注目したいと思います。
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