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伊集院須賀の真実!西郷どんに嫁いだ[悲劇の妻]

2024年9月6日


 

2018年のNHK大河ドラマ西郷どん、主人公の西郷隆盛(さいごうたかもり)は生涯に3度の結婚をしています。その最初の妻は、伊集院須賀(いじゅういん・すが)と言い、1852年、西郷24歳、須賀20歳で結婚しました。ですが、2人の結婚生活は2年ももたず1854年に破局を迎えてしまいます。一体、そこにはどんな理由があったのでしょうか?

 

 

監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。戦略設計から実行までの知見を得るためにBtoBプラットフォーム会社、SEOコンサルティング会社にてWEBディレクターとして従事。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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1832年伊集院兼善の娘として生まれる

 

伊集院須賀は、1832年天保3年、薩摩藩の小番組、父、伊集院兼善(かねよし)と母、伊集院重子(しげこ)との間に生まれます。伊集院家は、先祖に紀貫之(きのつらゆき)を持つ名家で伊集院忠棟(ただむね)のように戦国大名になった人もいますが、分家が多く、身分も様々です。

 

須賀の伊集院家も、伊集院兼善以前の系図は分からないようです。ただ、伊集院は、10ランクある島津家の身分制では7番目の小番組で西郷どんの家の小姓組よりは2つランクが上でした。須賀は、とても大事に育てられた箱入り娘で、おまけに誰もが振り向く大変な美人であり、上之園では評判の女性でした。

 

 

西郷どんの猛アタックで須賀陥落

 

西郷どんの住む、加治屋町から、須賀の住む上之園までは徒歩で10分、つまり、須賀の美貌の噂は西郷どんにも届いていました。背が高く立派な顔立ちだったと言われる西郷どんは、伊集院家に出向き「娘さんを下さい」と猛アタック、伊集院兼善は、身分違いではありましたが、西郷どんの立派な風采に感じるものがあったのか結婚を許しました。

 

NHK大河ドラマでは、伊集院須賀は、親の勧めで結婚したとされていますが真実は、西郷どんの猛アタックだったようです。

 ※その理由については、また、後段で触れます。

 

 

襲いかかる相次ぐ不幸に須賀は疲れ果てていく

 

しかし、2人の結婚は最悪のタイミングに祟られていました。新婚気分を楽しむ間もなく、病床に臥していた西郷どんの祖父の竜右衛門、父、西郷吉兵衛、母、西郷政佐子が連続で亡くなってしまうのです。西郷どんも後年に、「こんなに悲しかった事は無かった」と回想する程に、1852年は、西郷家にとって最悪の年でした。

 

嫁いだばかりの須賀は、次々と亡くなる義理の祖父、父、母の看病、さらには、相次ぐ葬式の出費などに忙殺される事になりました。ずっと、お嬢様育ちだった須賀には、これはとても耐えられない負担でした。それでも、西郷どんの支えもあり、何とか長男嫁の役割を果たしていたのです。

 

 

西郷どん斉彬に付いて江戸に出立、貧困に苦しむ須賀

 

ですが、1854年、須賀の心の拠り所だった西郷どんは建白書が認められ、島津斉彬(しまづ・なりあきら)のお供で江戸に向かう事になります。心細いけど、藩主のお供で江戸に行くのは立身出世ですから、須賀は、西郷どんを気持ちよく送り出します。

 

しかし、後に残された須賀には、まだ自立していない、幼い西郷の弟や妹を養う義務が残されました。そればかりではなく、借金も増えていき返済にも迫られます。彼女は、毎日の生活に疲れ果て健康を害していきました。西郷どんも江戸で須賀の事を気にかけてはいましたが、新妻の為に出来る事は何もありませんでした。

 

 

 

たまりかねた父、兼善が須賀を実家に引き取り離縁させる

 

 

そんな折、須賀の父である兼善が西郷家を訪れて、びっくり仰天します。「こんな家に大事な娘は置いておけない、離婚させていただく」兼善は須賀を引き取り、江戸にいる西郷どんに離縁状を送りました。文面は丁寧なものですが、書いてあるのは離婚の事実を突きつけるモノ、この時代は、身分が上の家柄の離縁状を下の身分の者は拒否できませんでした。

 

もっとも、それ以前に、西郷どんは抗議するつもりはありません。何も出来ず、家の事をすべて押し付けたのは自分なのです。「こちらこそ、申し訳ありませんでした」と答え離縁を承知しました。

 

 

借金苦で家を手放した西郷家は上之園に借家住まいをする

 

1855年、12月借金が返せなくなった西郷どんは実家を売却して返済に充て残された祖母と弟妹、下男等の家族は上之園の借家に移りました。大黒柱の西郷どんが単身赴任から帰るのは、1857年5月24日一年半以上も、西郷家は大黒柱がないまま過ごしたのです。須賀が去った後の西郷家は、二男の吉二郎が切り盛りし、1865年に西郷どんが3人目の妻、西郷糸子を迎えるまで窮乏が続きます。

 

 

晩年まで伊集院須賀に負い目を背負った西郷どん

 

弟の西郷従道(つぐみち)の話では、西郷どんは晩年まで須賀の事に負い目を感じ、思い出すたびに「すまない」と涙を流していたそうです。

 

相次ぐ、肉親の死と自身の出世、それで新妻を犠牲にした事を、忘れる事が出来なかったのでしょう。そこには、自分から求婚しておいて、不甲斐ない結果になった自責の念も含まれているように思います。 せめて義母である政佐子の死さえなければ、嫁姑で協力して困難を乗り越えられたかも知れないのに、運命とは残酷なものですね。

 

 

伊集院須賀、その後・・

 

西郷どんと離婚した後の伊集院須賀の事は分かりません。その理由は、伊集院家が消息を隠して知らせようとしなかったからです。もしかすると、西郷どんは、伊集院須賀の死んだ時さえ、知らされなかったかも知れません。

 

そうでないなら、須賀の死について、西郷どんのなんらかの感想がありそうですが、それも残っていないからです。奄美大島の島妻、愛加那も晩年は孤独ですが、消息が全く分からない伊集院須賀は、さらに気の毒な感じですね。

 

 

伊集院須賀 配役

 

せごどんで伊集院須賀を演じるのは、橋本愛さんです。西郷どんの最初の妻ながら、離婚の真相も性格も分からない須賀役を演じる事については、

 

「林真理子さんの描かれた原作では、純文学の匂いを感じるような奥ゆかしい中に強さを秘める素敵な女性でしたが、ドラマで中園ミホさんが創造されたのは原作とまた違う表情を持つ素直で愛情深い女性でした。感情の組み合わせが複雑な女性だったので、見て下さった方の想像力や経験などで須賀という女性の見え方が変わってくると思う」とコメントしています。視聴者の創造力や経験で、須賀が身勝手にも、可哀想にも、逞しくも見えるという事でしょうか?本編に登場するのが楽しみですね。

 

 

幕末ライターkawausoの独り言

 

西郷どんの人生に、たった2年足らずだけ登場する最初の妻、伊集院須賀、離婚後の彼女の人生はどんなものだったのでしょうか?その人生には、幸が多かったのか、苦労が多かったのか?西郷どんを恨んでいたのか、それとも、それでも好きだったのか・・今となっては、何事も時の流れの彼方に遠ざかってしまいました。

 

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台湾より南、フィリピンよりは北の南の島出身、「はじめての三国志」の創業メンバーで古すぎる株。もう、葉っぱがボロボロなので抜く事は困難。本当は三国志より幕末が好きというのは公然のヒミツ。三国志は正史から入ったので、実は演義を書く方がずっと神経を使う天邪鬼。

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