西郷糸子はどんな人?西郷どんの3番目の妻は冗談好きのしっかり者

2018年2月4日


 

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2018年のNHK大河ドラマの主人公、西郷どん、西郷隆盛(さいごうたかもり)

あまり知られていませんが、西郷は生涯に3度結婚し、1度の離婚歴がありました。

この西郷どんの3人目の妻が西郷糸子(さいごう・いとこ)です。

実は糸子もバツ1で、お互いにバツイチ同士の再婚となりましたが、

お互いを補い合うようにして、二人は仲睦まじく過ごす事になるのです。

今回は、西郷どんを物心両面で支えた良妻賢母、西郷糸子を紹介します。

 

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監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。戦略設計から実行までの知見を得るためにBtoBプラットフォーム会社、SEOコンサルティング会社にてWEBディレクターとして従事。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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西郷糸子が西郷どんと出会うまで

 

西郷糸子は、旧姓を岩山糸子と言い、1843年薩摩藩士岩山八郎太直温(なおはる)と、

妻、エイの間に5人兄弟の二女として誕生しました。

後の夫となる西郷どんとは、15歳も年齢の違う年の差カップルです。

大河ドラマでは、幼い頃の西郷どんと親しく、後に結婚する伏線が張られますが

年齢的に考えて、大嘘であり、ドラマのフィクションです。

つまり、幼少期に西郷どんと糸子には、何の接点もありません。

 

成長した糸子は、一度、海老原家に嫁ぐ事になります。

しかし、結婚生活は上手くいかず、実家に帰される事になりました。

 

薩摩藩士有川矢九郎の勧めでトントン拍子に縁談が纏まる

 

1865年、糸子22歳の時に、突然に西郷どんとの縁談が持ち上がります。

当時の西郷どんは、37歳、沖永良部からの流罪から帰還するや、

禁門の変で御所に攻め寄せる長州藩を撃退し、その後の長州征伐でも

参謀として戦争をリードして、長州藩の処罰を穏便に済ませるなど、

その名前は天下に轟き始めていました。

 

ところが、薩摩藩の重要人物になった西郷どんは、島妻はいても本妻がいません。

これでは対外的に体裁が悪いと考え、薩摩藩士の有川矢九郎が

妻の従妹であった糸子を紹介したのです。

それも、西郷どんが、薩摩に帰還して2週間しか経っていない時でした。

いかにも急ですが、これに薩摩藩家老の小松帯刀が媒酌人となり

すっかりお膳立てがされてしまったのです。

 

しかし、急な再婚も、糸子はまんざらでもなかったそうです。

祝言で初めて対面した西郷どんの顔を見て

「よか(好)二才(にせ:青年)じゃ」と思ったとか

 

そうでなくても、当時の西郷どんは時の人であり、

全身から人間的な魅力が発散していたでしょうから、

一度結婚に失敗し落ち込んでいた糸子が惚れた事もあり得ます。

 

波動の時代を生きた先人たちから学ぶ『ビジネス三国志

 

再婚早々、夫は多忙、小さな借家に大家族で住む事に

 

再婚した西郷糸子でしたが、熱々の新婚生活は僅か8日でした。

多忙な西郷どんは新婚生活を楽しむ暇もなく京都に主張して行ったのです。

おまけに当時の西郷家は、借金苦で家を手放しており、

上之園に家を借りて住んでいたのです。

 

それでも、夫婦二人きりなら狭い家もいいかもですが、

実際には、借家には西郷家の二男の西郷吉二郎とマスの夫妻と子供が二人、

四男で自立前の西郷小兵衛(こへい)17歳、それに永田熊吉のような使用人が数名

10名近い人数が同居していました。

 

いきなり、大家族を抱えて、家長の嫁になった22歳の西郷糸子、

ですが、しっかり者の性格の彼女は、不在がちの夫をサポートして

大所帯の西郷家を切り盛りしていきました。

 

時代が、第二次長州征伐、薩長同盟、大政奉還、王政復古、

鳥羽伏見の戦いと激動する中で、西郷どんが家を心配せず、

全力を尽くせたのは、糸子の内助の功のお陰だったのです。

 

西郷どんも、糸子を良妻じゃと褒め、当時の薩摩の男には珍しく

糸子の造る料理を褒めたりしていました。

一方の糸子も、やや潔癖症ながら、冗談が好きな明るい性格で

同じく冗談好きの西郷どんとも性格が合っていたようです。

 

西郷糸子、家族構成と子孫

 

明治維新までは、多忙で不在が多かった西郷どんと糸子ですが、

夫婦仲は円満であったようで、1866年に待望の嫡男、西郷寅太郎(とらたろう)が誕生

1870年には西郷午次郎(うまじろう)、1873年には、西郷酉三(とりぞう)が誕生します。

それぞれ、西郷寅太郎は、ドイツに留学して陸軍軍人になり、

二男の午次郎は実業家になりました。

三男の酉三は、30歳で結核に罹り、独身のまま病死しています。

 

二男の午次郎は島根県津和野町の銅山経営で成功した堀藤十郎の娘、

ヒデと結婚していますが、2人の間に生まれた西郷隆一の娘の伊津子(いつこ)は

昭和42年に島津家の当主、島津修久(のぶひさ)と結婚しています。

 

2人は、それぞれ、西郷隆盛の曾孫と島津久光の玄孫に当たり、

仲が悪かった西郷どんと久光の子孫の結婚と騒がれました。

おまけに、この時の媒酌人が大久保利通の孫の大久保利謙(としかね)だったそうで

なんだか、出来すぎたような奇妙な因縁でした。

 

愛加那と西郷糸の関係

 

西郷どんは、糸子と結婚する6年前に奄美大島で2番目の妻である、

龍愛子、愛加那と再婚しています。

2人の間にも、西郷菊次郎(きくじろう)と菊草(きくくさ)という子供がいましたが、

当時の薩摩藩の決まりで、島の女は鹿児島に渡る事が許されず、

泣く泣く別れたという経緯がありました。

 

西郷糸子から見れば、愛加那へは複雑な感情があっても

不思議はないですが、彼女は少しも嫉妬を表には出さず、

奄美大島で慎ましく暮らしている愛加那に生活費を送金していました。

そればかりか、西郷どんが、菊次郎と菊草を鹿児島に引き取ると、

わが子と分け隔てなく養育したのでした。

 

一方の愛加那も、鹿児島の本妻の糸子を憚るように、

明治維新後に、西郷どんが手紙で遊びに来なさいと書いても、

頑なに拒んで島から出る事が無かったそうです。

 

大河ドラマ西郷どんでは、糸子と愛加那が出会うシーンがあるようですが

それはフィクションであり、両者は生涯会う事はありませんでした。

 

最初で最後の家族での温泉旅行

 

明治2年、西郷どんは、戊辰戦争の終結後に、帰郷し武村に、

680坪の屋敷を購入して、一家で移り住みました。

ここで、西郷一家は狭い借家住まいから解放されます。

 

再び、明治政府から呼び戻されるまでの2年間、西郷どんは、

この武村の屋敷で晴耕雨読の生活を送る事になります。

あまり知られていませんが、西郷どんは大変な読書家であり、

自宅には1300冊の蔵書があったそうです。

 

廃藩置県などの大仕事を引き受ける為に東京に上がった西郷どんは

いわゆる「征韓論争」で敗れ、政府の職を返上して鹿児島に帰ります。

再び、家族水入らずでの生活が始まるかと思われましたが、

この頃には、様々な人々が西郷家を訪れるようになり、

それが煩わしくなった西郷どんは、日当山(ひなたやま)温泉に逗留しました。

私学校を設立して、後進の育成に着手したのも、この頃です。

 

明治8年10月、西郷一家は、約3週間、日当山温泉で湯治します。

参加したのは、西郷隆盛(47)と糸子(32)、寅太郎(9)、午次郎(5)、

酉三(2)、愛加那の子である菊草(12)、戊辰戦争で戦死した西郷吉二郎の子、

西郷美津(みつ:12)、西郷隆準(りゅうせつ:11)、そして、糸子の母の岩山エイ(51)、

糸子の弟である岩山直方の妻、岩山トク(19)、子の岩山長彦(おさひこ:2)

 

まさに、西郷一家を引き連れての大温泉旅行でした。

愛する夫と沢山の家族に囲まれて糸子は幸せでしたが、

この幸せには、終わりが近づいていました。

 

西南戦争 夫、西郷隆盛の死

 

明治10年1877年、2月17日、西郷どんは、武村の自宅から

和服に袴姿で外出していきました。

それが、西郷糸と西郷どんの永遠の別れになります。

このまま、西郷どんは私学校に出向き、陸軍大元帥服に着替えて

東京に向けて進撃を開始したからです。

日本最期の内戦、そして、西郷家を二つに引き裂いた西南戦争です。

 

戦争は鹿児島にも飛び火し、西郷家も武村の自宅を出て各地を転々、

その後、戦争の余波で、武村の家は焼かれました。

熊本では、西郷家の四男、西郷小兵衛が戦死、西郷菊次郎も、

右足を切断する重傷を負います。

戦っている政府軍には、西郷どんの弟の西郷従道や、

従兄弟の大山巌もいて、西郷家も敵味方に別れる哀しい戦いでした。

 

9月14日、夫が城山に籠っていると聞いた糸子は、

新しい着物と帯を下男の永田熊吉に届けさせました。

それから10日後、西郷隆盛は城山で自刃、49年の生涯を閉じたのです。

 

西郷糸子と上野の西郷像

 

1896年、53歳になった西郷糸子は、長男の西郷寅太郎の結婚に合わせて

鹿児島の自宅を引き払い東京で、長男夫婦と暮らすようになります。

西南戦争の終結直後は、賊軍の家族として、戦災の恨みを一心に受けて、

肩身の狭い思いをしていた西郷どんの遺族ですが、

名誉回復運動は早くから行われ、西郷寅太郎が明治天皇の下賜金で、

ドイツ留学を果たすなどがあり、急速に関係改善が進みます。

 

そのピークが、1898年に上野恩賜公園に建立された西郷隆盛像でしょう。

皇室からの下賜金を基金に民間の浄財で建立された像は、彫刻家の

高村光雲の作であり、西郷の名誉回復を願う人々の一大イベントでした。

 

東京に住んでいた糸子は、義理の弟である西郷従道と除幕式に参加しますが

銅像を見た瞬間に思わず大声を出してしまいます。

 

「あらよぅ!やどんし(旦那様)は こげなお人ではなかよぅ」

 

隣にいた従道は苦笑いして、糸子の足を踏んで注意しますが、糸子は

 

「んだども、んだども、やどんしは あげな人ではなか」と連呼、

 

セレモニーはシーンとなり、元勲たちが、口々に銅像はソックリだ、

生き写しだと賞賛する声が空しく響く事になりました。

 

近年では、糸子の発言は、西郷どんの顔に関するものではなく、

「旦那様は、人前に着流しで現れる非常識な人ではなかった」という

Tpoに関する発言だと解されますが、案外、西郷どんに惚れていた糸子には

西郷どんは、大変なハンサムに見えていたかも知れません。

 

同じく、西郷どんに心酔していた事で知られる、板垣退助は、

「西郷像は似ていない!造り直すべきだ」と主張していたとか・・

その後も、西郷の想像図が世間に流布するのを板垣は苦々しく思い

わざわざ画家を呼んで自分が記憶している西郷の肖像画を描かせています。

 

どうやら、西郷どんを尊敬し、愛していた人々から見ると、

上野の西郷像は間が抜けて滑稽に見えていたようです。

 

西郷糸子の墓

西郷糸子は、大正11年、1922年に79歳で死去しました。

西郷どんの死から、45年間も生きた事になります。

ただ、その間に長男の寅太郎、三男の酉三にも先立たれるなど、

辛い事にも遭遇しました。

 

彼女の墓は、東京都港区南青山2丁目32-2

青山霊園1種イ11-21に

長男の西郷寅太郎の墓と共に立っています。

 

※墓参りは、マナーを守り行いましょう。

 

西郷どん 西郷糸子 子役 キャスト

NHK大河ドラマ西郷どんでは、西郷糸子の子役を渡邉このみちゃんが演じています。

西郷どんでは、子役の熱演がとても評価されていますが、

渡邉このみちゃんも実力派で、2006年生まれの11歳です。

 

まだ、11歳ながら、NHK朝の連続テレビ、べっぴんさん、まれ、永遠のゼロ、

映画、大奥~永遠~や火花などに多数出演しています。

 

子役としては、当然として、今後はアイドルや俳優としての

活躍が期待できますね。

 

西郷どん キャスト 黒木華

成長した西郷糸子は、女優の黒木華さんが演じています。

彼女は大阪府出身の27歳で、代表作は、「花子とアン」主人公の妹のかよ役

真田丸にも出演していて、大河ドラマは2作目の出演です。

 

個人的な感想ですが、黒木華さんの横顔は西郷糸の写真によく似ています。

たおやかだけど芯が強い、日本美人の黒木華さん、良妻賢母だった

西郷糸子は、はまり役になるかも知れませんね。

 

幕末ライターkawausoの解説

 

奄美大島で西郷どんと大恋愛した愛加那に比べて再婚同士だけあり、

どうも地味な印象がある西郷糸子。

ですが、1865年から明治維新までの西郷どんが最も苦しい時期に、

大家族だった西郷家を切り盛りし、陰から支えたのが糸子でした。

その功績は、愛加那に勝るとも劣らないでしょう。

 

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台湾より南、フィリピンよりは北の南の島出身、「はじめての三国志」の創業メンバーで古すぎる株。もう、葉っぱがボロボロなので抜く事は困難。本当は三国志より幕末が好きというのは公然のヒミツ。三国志は正史から入ったので、実は演義を書く方がずっと神経を使う天邪鬼。

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