中国史を学ぶ上で理解しておきたいのが儒教。
儒教は春秋時代の思想家・孔子を祖とする学問で、その孔子の教えが記された書物のことを経書もしくは経典と呼びます。経書の中でも特に覚えておきたいのは、五経と称される『易経』『書経』『詩経』『礼記』『春秋』、そして四書と称される『論語』『孟子』『大学』『中庸』あたりでしょうか。
五経は前漢時代に董仲舒の進言で五経博士が設けられた際に定められたもので、四書は南宋の儒学者・朱熹が定めた五経を学ぶための入門書です。しかし、儒教の経典は入門書レベルとされる四書でも難解。たくさんの注が付けられ、時代が下るにつれてさらに注の注がつけられるレベルほどです。なぜそんなに注が必要なのか?それは孔子の言葉がその言葉以上に奥深いからなのです!
春秋の筆法
「春秋の筆法」という言葉を聞いたことはありませんか?
辞書を引いてみると、「事実を述べる際に筆者の価値判断を入れて書く方法」「間接的原因を結果に直接結びつけて厳しく批判する書き方」などの意味が出てくると思います。この「春秋の筆法」の「春秋」とは、孔子が編んだとされる歴史書『春秋』のことであり、孔子が『春秋』を執筆する際に、ある出来事に対して自分の考えや批判を加えていることから生まれた言葉なのです。
歴史書というものは一般的には事実のみを列挙していくべきものとされているのですが、孔子は事実の中に自分の考えを織り交ぜるという手法をとっています。そのため、これが一事実を述べたにすぎないものなのか、孔子の考えが表現されたものなのかがわかりにくくて仕方がありません。それも、たったの一言もしくは一文字に自分の考えを集約していることもあり、ただの助詞くらいに思っていたら、その文字に孔子の批判が隠れていた!なんてこともよくあるのです。
一文字も読み飛ばせない!
微言に大義を秘める『春秋』はそういうわけで一字一句読み飛ばすことができない代物。そのため、『春秋左氏伝』・『春秋公羊伝』・『春秋穀梁伝』といった「三伝」と呼ばれる注釈書が生み出されます。これらの注釈書が編まれてからは『春秋』単体で読まれることはほぼ無くなってしまいました。だって本当に難しいんだもの…。
しかし、一字一句を読み飛ばすことができないのは何も『春秋』に限ったことではありません。儒教の経典の全ては一文字一文字丁寧に読まないと孔子の真の意図を読み取ることができないのです…!
そのことに気がついた者たちによって経書の研究が進められ、一字一句にたくさんの注が付けられてきました。経書が世に現れから数千年間、多くの学者たちがその経書の真理に近づこうと努力しながら、その奥深さに唸らされています。数千年経ってもその全てが解明できないなんて、経書というのは本当に奥深い書物ですよね。
春秋の筆法は正史にも受け継がれた!?
実は、この春秋の筆法は、『史記』を筆頭とする正史でも大いに用いられていると言われています。たとえば、司馬遷が著した『史記』では、とある人物の伝の末尾に「太史公曰わく」と付してその人物に対する司馬遷の評価が記されています。
司馬遷は孔子と同じように、歴史的事実に仮託して自分の考えを主張しているのです。司馬遷がこの春秋の筆法を継承したのは、『春秋』が単に歴史書の先輩にあたるものだからというわけではありません。司馬遷自身が前漢の武帝によって宮刑に処せられ、恥を晒しながら生きていかなければならなくなったことにより、世の中の不条理に対して義憤を覚え、同じく周王朝が滅びて世が乱れたことについて嘆き悲しんでいた孔子に対して強い共感を覚えたためでしょう。怒りや嘆きといった人の強い感情はその行き場を探し求めて体中をかけめぐります。孔子の嘆きの発露は『春秋』であり、司馬遷の怒りの発露は『史記』だったのでしょう。
三国志ライターchopsticksの独り言
実は、陳寿が著した『三国志』でも春秋の筆法が見られます。もともと蜀に仕えていた陳寿は、西晋王朝に仕えるようになってから『三国志』の執筆を開始します。西晋王朝の正統性を示すために陳寿は三国の中でも西晋王朝に禅譲した魏を正統として『三国志』を編みますが、どことなく違和感がある『三国志』。
その違和感の正体は、どこか蜀を特別扱いしているような陳寿の言葉選びにあるのです。そんな陳寿の言葉を一字一字丁寧に追ってみると、陳寿の意外な本音が見えてくるかもしれませんね。
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