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西郷どんの隠された子孫!愛加那との子供たちの[運命]

2024年10月3日


 

NHK大河ドラマ西郷(せご)どん21話「別れの唄」では、西郷どんは鹿児島に帰る事になります。島の掟で奄美大島を離れる事が出来ない愛加那(あいかな)と西郷どんは、泣く泣く別れる事になりました。しかも、その時、愛加那のお腹には長男の菊次郎(きくじろう)以外にも西郷どんとの二人目の子供、菊草(きくくさ)が宿っていたのです。では、西郷どんと愛加那の忘れ形見の二人の子供達はその後、どんな人生を送ったのでしょうか?

 

 

監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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これが最後じゃない!もう一度再会する愛加那と西郷

 

 

1862年、藩命により西郷吉之助は鹿児島に戻ります。ところが、島津久光(しまづひさみつ)の上洛の時に、スタンドプレーをした事で藩父、久光の逆鱗に触れ、今度は奄美大島の南、30キロにある徳之島へ、さらに1か月程後にはさらに南の沖永良部(おきのえらぶ)に流されます。

 

それを知った愛加那は生まれたばかりの菊草と、3歳の菊次郎を連れて船に乗り、徳之島で西郷どんと再会します。乳飲み子を連れ、周囲の反対を押し切っての夫に会いたい一心の行動でした。

 

「私は罪人だから会いにきてはいかん」と厳しい態度をとっていた西郷どんも危険を顧みない愛加那の行動には涙を流すしかありませんでした。その後、西郷どんは沖永良部に流され、1年程罪人として過ごし再び許されて帰還する事になります。その途中、西郷は、奄美大島に立ち寄り、1年ぶりの親子4人、水入らずの日々を数日過ごしました。

 

 

 

これが、愛加那と西郷どんの最期の日々になりました。愛加那は、その後も鹿児島で共に暮らそうという西郷の誘いを正妻の迷惑になると遠慮して断り続け、畑仕事をしながら1902年に65歳で亡くなりました。

 

 

西郷菊次郎のその後

 

明治2年、明治維新(めいじいしん)が成就すると、西郷どんは奄美大島から、8歳になった菊次郎を引き取りました。この時に、愛加那も鹿児島に来るように誘われますが愛加那は西郷の正妻の糸に遠慮し、また鹿児島には根強い奄美大島出身者への差別もあり、申し出を断ります。鹿児島にやってきた菊次郎は11歳の時にアメリカ留学、その後、16歳で西南戦争(せいなんせんそう)に西郷軍の一員として従軍しました。しかし、延岡・和田越えの戦闘で右足に銃弾を受けて負傷、右足の膝から下を切断します。

 

その後、父の側近の桐野俊秋(きりのとしあき)の計らいで、西郷家の下僕の永田熊吉(ながたくまきち)をつけて他の負傷者とともに戦場に置いていかれる事になります。いよいよ危なくなった時、菊次郎は永田熊吉によって背負われ戦場を離脱して政府軍に投降、九死に一生を得る事になります。

 

外務省、台湾勤務を経て京都市長として辣腕を振るう

 

1884年、西郷が赦免されると菊次郎はアメリカ留学の語学力を生かし外務省に入省して、官僚として暮らしていく事になります。台湾勤務を経て、京都市長になってからは、京都三大事業として、発電、上下水道整備、市電設置などの巨額事業を三井銀行の協力を取り付け4500万フランの外債を発行する事で達成しました。

 

しかし、市長在任から7年で切断した右足の後遺症からくる病気で市長を続けられなくなり1911年には辞任、その後、鹿児島に帰っています。菊次郎は親孝行な人で、時々、奄美大島に帰っては、母愛加那と共に暮らしたりしています。鹿児島に戻っても健康は回復せず、1929年に67歳で心臓麻痺で死去しました。

 

 

苦労が絶えなかった菊草の人生

 

西郷どんにとっては、唯一の娘である菊草は、1874年、12歳で鹿児島に引き取られる事になります。しかし、慣れない気候風土と母から離された寂しさもあったせいか鹿児島に来てから1年間は病気がちで西郷どんは、その看病でつきっきりだったりしたそうです。健康が回復すると、菊草は13歳年上の大山誠之助(おおやませいのすけ)と縁組されました。大山家と西郷家は、父の代からの親戚だったのです。

 

ところが、西郷どんが期待し娘を託した大山誠之助は、大変な浪費家であり、しかも、菊草に家庭内暴力を振るうDV夫菊草は4人の子供を抱えて我慢していましたが、明治40年頃には、とうとう離婚し兄を頼って東京で暮らしました。そして、それから僅か2年後、1909年に47歳で病死します。兄よりも早く亡くなってしまうという幸薄い人生でした。

 

 

幕末ライターkawausoの独り言

 

西郷どんと愛加那の間に生まれた二人の子供は、激動の時代を自分なりになんとか乗り越えて天寿を全うしていました。

 

でも、もし、西郷どんに帰還命令が出なかったら、菊次郎も寿命を縮める右足切断の目に遭う事なく、菊草も夫のDVに悩まされる事なく、その後も増えたであろう兄弟と共に、母と父と奄美大島で貧しくものどかに暮らしていたのかも知れません。西郷隆盛という一代の英雄の子に生まれた事は、二人の人生に大きな影響を与えてしまったと言えるでしょう。

 

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台湾より南、フィリピンよりは北の南の島出身、「はじめての三国志」の創業メンバーで古すぎる株。もう、葉っぱがボロボロなので抜く事は困難。本当は三国志より幕末が好きというのは公然のヒミツ。三国志は正史から入ったので、実は演義を書く方がずっと神経を使う天邪鬼。

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