広告

史上最高のファイトマネー![家康が関ヶ原で得た巨額報酬]

2024年10月28日


戦国時代の合戦シーン(兵士モブ用)

 

西暦1600年の関ヶ原の戦いは覚えやすい00年の戦いであると同時に江戸幕府への道を開いた戦いです。しかし、関ケ原の戦いはそればかりではなく、徳川263年の天下の基盤を産み出した徳川家康(とくがわいえやす)が非常に儲かったコスパ最強の戦いでした。今回は、たった数時間の戦いが家康にもたらした莫大な富について解説しましょう。

 

 

監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


【誤植・誤字脱字の報告】 バナー 誤字脱字 報告 330 x 100



【レポート・論文で引用する場合の留意事項】 はじめての三国志レポート引用について



630万石の没収石高を数時間で手にした家康

兵糧を運ぶ兵士

 

関ケ原の戦いで勝利した家康の東軍は、数時間で630万石という広大な領地を西軍の大名から没収しました。太閤検地(たいこうけんち)の頃の日本の総石高は1800万石なので、日本の総石高の1/3を数時間で家康は掴んだことになります。これを現在の米の価格を参考に金銭価値に直すと4725億円という巨額です。半分は農民の取り分でも2400億円弱の儲けです。家康は没収した石高の300万石分以上を身内の加増に向けました、簡単に言うと私腹を肥やしたわけです。

まだ漢王朝で消耗しているの? お金と札

 

そればかりではなく、家康は全国の主要な金山、銀山や堺のような主要な港を手に入れました。これらの諸々をカウントすれば、家康のファイトマネーは数時間で1兆円にも上るでしょう。世界史上を見ても、天下獲りと同時にこれだけ儲かった人はいないのではないでしょうか?

 

 

東軍についた豊臣恩顧には少ししかあげない

軍議(日本史)モブb

 

関ケ原の戦いは事実上は豊臣vs徳川ではなく、徳川&アンチ石田三成(いしだみつなり)派vs石田三成派という複雑な図式でした。豊臣秀吉の子飼いとして辣腕(らつわん)を振るう石田三成に対し憎悪を持つ、加藤清正(かとうきよまさ)福島正則(ふくしままさのり)池田輝政(いけだてるまさ)細川忠興(ほそかわただおき)浅野幸長(あさのゆきなが)加藤嘉明(かとうよしあき)黒田長政(くろだながまさ)の秀吉恩顧の大名が東軍の家康について戦ったわけですが、家康はこれらの豊臣恩顧の大名に対して合計でも200万石程度しか与えられていません。

 

石田三成

 

 

さらに彼らは、近畿方面の豊かな土地から中国、九州、四国に転封させられています。それらを考えると東軍についた豊臣恩顧は大坂城から遠ざけられ、石高も現状維持か減封に終わった骨折り損のくたびれもうけでした。

 

 

西軍が没収された630万石のカラクリ

毛利輝元

 

西軍に参加して没収された石高630万石にも実はカラクリがありました。一番削られたのが豊臣秀頼(とよとみひでより)で222万石から156万石も没収され66万石に削減、2位の毛利輝元は120万石から90万石以上削り29万8000石です。この両者は、関ケ原の戦いで直接家康と槍を交えた事もないのにも関わらず家康に難癖(なんくせ)をつけられて剥ぎ取られています。毛利輝元は名目上の西軍の総大将ですが、一説では家康と所領安堵(しょりょうあんど)を条件に参加しなかった説もありますが、それが事実なら家康は堂々と約束を反故にして毛利家から剥ぎ取った事になります。

 

徳川家康

 

 

実は関ケ原の戦いの前、石高のトップ3は、徳川家康、豊臣秀頼、毛利輝元の順位でした。そこで家康は、2位と3位の豊臣と毛利を狙い撃ちにして石高を剥ぎ取り、反対勢力の芽を摘んだのです。関ケ原の戦い以降は1位の家康は400万石で、2位の前田利長は120万石となります。石高で見ても徳川と前田ではダブルスコア以上の差がつき、単体では家康に対抗できなくなりました。もし前田が家康に叛くなら、強力な大名を4~5人味方に引き入れないと勝利できなくなったのです。

 

 

石高をガメて盤石な体制を築いた家康

武田信玄と徳川家康

 

家臣を含めた徳川一族の版図は800万石で、当時の日本の領土の25%をしめていました。これは、関ケ原で分捕った領地が元ですが、鎌倉、室町、豊臣の各時代の政権に比較しても圧倒的に大きいものです。つまり、徳川幕府は歴代の幕府でも、もっともお金持ちの政権でした。この圧倒的な軍事と経済の優位があればこそ、実質封建体制の江戸期において徳川幕府は300諸侯を従えて中央集権的な政策が可能だったのです。

 

譜代大名に対してもケチな家康

江戸城

 

個人的にも400万石の莫大な土地を得た家康ですが、徳川恩顧の譜代大名へ封地も少ないものでした。関ケ原の戦いまでで家康の家来で10万石を与えられたのは、井伊直正、榊原康政(さかぎばらやすまさ)本多忠勝(ほんだただかつ)の3名しかいません。

 

本多忠勝

 

 

天下を獲った後は、少しはマシになったかというと、徳川四天王の筆頭、井伊家に与えられた所領は30万石でした。400万石の1/10も与えないとは、ライバルの石田三成が島左近に自分の石高19万石から2万石与えたのに比べると随分ケチです。

 

もっとも、秀吉の引き立てで成り上がった三成は、それ相応の待遇で新しく家臣を抱える必要がありましたが、三河に何百年も地盤を持つ徳川家康の場合には、家臣団はすでに何百年も仕えて代を経ていて、そんなに多額の恩賞を与えなくてよかった事もあります。ただそれにしても、家康はかなりケチだと思えますけどね。

 

 

戦国時代ライターkawausoの独り言

kawauso 三国志

 

関ケ原の戦いは本来、家康とは無関係の豊臣家の内輪もめでした。しかし、後々の禍を断とうと石田三成が家康打倒の兵を挙げた事で、戦いに巻き込まれる事になり、うまい事反三成勢力を自分の味方につけて数時間で勝利し、実際には戦争に参加していない豊臣秀頼や毛利輝元の石高を大幅に削れるという濡れ手に粟の大勝利になりました。この勝利なくして、後の徳川の泰平はなかったのです。待った甲斐があり、家康に転がり込んだ幸運とも言えますね。

 

参考:お金の流れで見る戦国時代

 

▼こちらもどうぞ

本多忠勝はどんな最期を迎えるの?関ヶ原から最期まで分かりやすく解説

 

 

  • この記事を書いた人
  • 最新記事
kawauso

kawauso

台湾より南、フィリピンよりは北の南の島出身、「はじめての三国志」の創業メンバーで古すぎる株。もう、葉っぱがボロボロなので抜く事は困難。本当は三国志より幕末が好きというのは公然のヒミツ。三国志は正史から入ったので、実は演義を書く方がずっと神経を使う天邪鬼。

-外部配信