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タウンゼントハリスの正体!善意の仮面をかぶった[外交官]

2024年11月4日


ペリー(幕末)

 

 

日本史に登場するアメリカ人は、そんなに多くはありません。特に有名なのは、ペリー提督、マッカーサー元帥(げんすい)、それにルーズベルト大統領最後は、ケネディ大統領くらいでしょうか?

 

そんな彼らの中で最も低い知名度ながら日本に深刻な衝撃を与えたのがアメリカの初代駐日領事(りょうじ)、タウンゼント・ハリスでした。今回は商人出身でフレンドリーに振るまいつつ、外交にウブな幕臣を()めた食わせ者外交官、ハリスについて、簡単に紹介します。

 

監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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1804年ニューヨークに生まれるハリス

 

ハリスは1804年にニューヨーク州ワシントン郡、サンデーヒルにウェールズ系の陶磁器輸入業者、ジョナサン・ハリスの六男として生まれます。家は商売がうまく行っているとは言い難く、ハリスは小中学校を卒業するとすぐに家業に従事する事になります。

 

しかし、向学心があるハリスは学問を諦めず、図書館に通いながら独学でフランス語、イタリア語、スペイン語、さらに文学を学びます。そんな苦学の経験から、ハリスは貧しい人々の教育問題に熱心であり1846年には、ニューヨーク市の教育局長になり、1847年には無償で学べるフリーアカデミーを開学して、自身も教鞭を執り外国語を教えています。

 

 

当時、貧乏人に無償で勉強させて何になるという批判も多くありましたが、ハリスは(ひる)まず、後年にフリーアカデミーはニューヨーク市立大学に発展ノーベル賞受賞者を出すなど、アメリカの発展に貢献します。実はアメリカにおけるハリスの知名度は初代駐日領事より、フリーアカデミーの創設者の知名度が圧倒的なのだそうです。

 

 

貿易商人に転身し、政治家に手紙を出し続け初代日本領事に

黒船

 

しかし、教育者として成功しつつも、実家の陶器輸入業の経営は悪化します。ハリスは起死回生の為に貿易業者に転身してサンフランシスコで貨物船の権利を購入、清、ニュージーランド、インド、マニラを回って東洋に腰を落ち着けます。その頃、ペリー艦隊は上海にいて、日本に興味があったハリスは、「自分も日本に連れて行ってくれまいか?」とペリーに交渉します。

 

ペリー

 

ですがペリーはハリスが軍人ではない事を理由に拒否、ところがハリスは諦めず国務大臣などの伝手を頼り、日米和親条約の11条に記された駐日領事になろうと政界人の推薦状(すいせんじょう)などを合衆国政府に送り、1855年14代大統領ピアーズから、初代駐日領事に任命されました。ハリスにとっては、幸運な事に当時のアメリカは外交官に商人などの民間人を当てる慣例があり、イギリスのように貴族しか外交官にしないとかロシアのように高級軍人を当てるような習慣とは違っていました。

 

 

アメリカ人らしくフレンドリーを演出し幕府役人を嵌める

江戸城

 

ハリスが来日した頃、幕府は諸外国ともアメリカ同様の条約を結んでおりてんやわんやの状態である上に、13代将軍の徳川家定(とくがわいえさだ)は病弱でありおまけに後継者も決めていない状況でした。さらに、井伊直弼(いいなおすけ)松平容保(まつだいらかたもり)が推す紀州藩主の徳川慶福(とくがわよしとみ)と、徳川斉昭(とくがわなりあき)島津斉彬(しまづなりあきら)が推す御三卿(ごさんきょう)、一橋家の一橋慶喜(ひとつばしよしのぶ)が将軍の後継者を争うという政治問題も起きていたのです。

 

井伊直弼

 

 

そんな中でハリスは、ようやく下田に到着してアメリカ大統領の親書を将軍に手渡そうとしますが、「今、それどこじゃねえよ、後々ね!」と幕府に放置プレイを食らいます。人間観察に長けたハリスは、そのような粗末な扱いを鷹揚(おうよう)に受け入れフレンドリーなアメリカ人の印象を幕府役人に植え付けました。

 

しかし、翌年、1857年の7月にアメリカの砲艦が下田に入港すると風向きが変わってきました。幕府は、アメリカの砲艦はハリスの要請によるものではないかと疑い1854年のペリーの砲艦外交「クニヲヒラキナサーイ」を思い出したのです。機を見るに敏なハリスはその幕府の変化を見逃しません「条約を結ばないとアメリカと戦争にナルカモネー」と仄めかし

 

 

「アロー戦争が終わったら、イギリスが大挙して日本に押しかけますよーアメリカと最初に条約を結んでおいて後ろ盾にするのが断然オトクですよー」等とそれらしいハッタリをかけて幕府を揺さぶったのです。怖れた幕府は放置プレイしていたハリスをちやほやしだし、江戸城に登城を許して徳川家定に謁見させました。ハリスはアメリカ人で初めて徳川将軍に会った人物になります。

 

 

日米修好通商条約では、日本の為にも尽力したと言われるが・・

 

タウンゼント・ハリスは、日米修好通商条約について、一方的に恫喝するのではなく、日本側にも一定の譲歩(じょうほ)を行ったとされています。例えば、日本の国情(攘夷派がうろつき外国人が危険)に配慮して外国人の移動の自由を制限した案を承認したり、アヘンの輸出を禁じる規則を盛り込むなどは、フェアネスが見られます。

 

 

しかし、一方で日米修好通商条約の草案は、すでにハリスが提示していて日本側は、ハリスの草案の枠内で交渉する事を余儀なくされます。特にえげつないハリスの本性が出たのは、金銀の等価交換でした。

 

当時、日本では、金に対して銀の価値が高い状態にありました。それは、金1につき銀は4・65だったそうです。逆に世界標準では、金1につき銀は15・3と安価でした。そこで、日本は金を基準にした通貨交換を求めますが、ハリスはこれを拒否、世界標準に合わせ洋銀での通貨交換を通してしまいます。

 

 

これにより、外国商人は日本に洋銀を持ち込んで日本の一部銀(いちぶぎん)に両替しさらに、小判と一部銀を交換して国外に持ち出し、小判を潰して地金に替えそれを洋銀に替えるだけで莫大な利益を得られたのです。そして当のハリスが、この方法で莫大な富を得てボランティア事業の寄付金にしたと日記に書いているのです。

 

「てめえ、自分の儲けの為やないかい!!」

 

ハリスは実際には、恫喝を駆使してズルい手段を駆使し、日本の金を流出させるのに一役買っているのです。

 

 

日本を賞賛する言葉を残し惜しまれつつ、日本を去るハリス

 

1860年、ハリスは攘夷運動の高まりにより、異人斬りが横行する中で江戸開市(えどかいし)が危険である事を認識します。江戸開市は、日米修好通商条約に明記されていたのですが、当時の江戸には、外国人を斬って名を挙げたいという攘夷志士がウロウロし実際に、ハリスの通訳のヒュースケンも襲撃され殺されていました。そこでハリスは開市延期に反対する諸外国を抑え合衆国政府と交渉、幕府と連動して江戸開市の7年間の延期を実現させます。

 

幕府は内心では江戸を外国人に開放するのは反対ですから、協力してくれたハリスは幕府からも受けが良く、1862年に体調を崩して日本を去る時には幕府から「ハリスを留めて欲しい」という要請がアメリカ政府に届いた位でした。

 

ハリスは、日本人はアジアでも有数の優れた民族であるなど、日本を賞賛した言葉を多く残していて、現在でも非常に日本人受けのよいフェアネスな外国人のように評価されていますが、事実は、どこまでもアメリカの国益を考えた人物であり、捨ててもよい小さな権益や、アメリカの得にならない事については、さも、日本人の友人のような顔をして手助けしただけのようです。

 

 

ただ、今のアメリカ人のように自己PRが上手く、人道や国際正義を絡めて、さもフェアネスを演出するので、国際外交にはウブな幕府役人はすっかり騙されたのです。ハリスは日本を去ってから、16年の余命を生きて、1878年の2月25日に保養地のフロリダで74歳で死去しました。

 

 

幕末ライターkawausoの独り言

kawauso

 

ハリスは、日本人が好きそうな典型的なアメリカ人の要素を備えています。すなわち温和でフレンドリーな顔をして近づき、親切心から出た真心のように「悪辣な外国の脅威から日本を守ってやろう」と囁き、小さな利益はフェアネスぶって恩を着せつつ放棄し日本人の尊敬を買い一番大きな利益は、強引かつ、なりふり構わず掴んでしまうのです。こういうアメリカ人には、ご用心ですな・・

 

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kawauso

台湾より南、フィリピンよりは北の南の島出身、「はじめての三国志」の創業メンバーで古すぎる株。もう、葉っぱがボロボロなので抜く事は困難。本当は三国志より幕末が好きというのは公然のヒミツ。三国志は正史から入ったので、実は演義を書く方がずっと神経を使う天邪鬼。

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