三国志の中には、虎賁(こほん)とか、騎都尉(きとい)とか、校尉(こうい)とか、様々な官職があります。
それぞれ身分の上下はありますが、無くてはならない仕事ですが、それらの官職に、墓泥棒の専門という、発丘(はっきゅう)中郎将や摸金(もきん)校尉というトホホな官職がありました。しかし、どうして、このような官職が登場したのでしょう。そこには、背に腹は代えられぬ、当時の群雄の悩みがありました。
武器を造る為に、手っとり早く墓を暴いた曹操の合理主義
三国志の時代、群雄達にとって、どうしても必要な事は武器や防具の製造でした。そりゃそうです、武器防具の備えがなくては、戦うのにも難渋しますからね。一番いいのは、鉱山から鉄や銅のような資源を採掘して造る事ですが、なにより、何十年も戦争が続くと、鉱山は荒れ果て、道路は寸断され、そうそう大量の銅や鉄を手に入れる事は出来ません。また、そうでなくても、民間でも鉄や銅を使うのですから、民間との配分の兼ね合いも、考慮にいれないといけなくなりました。
そこで、魏では大量の副葬品が眠る墳墓を暴いて資源としてリサイクルする合理主義と強弁しても、あんまりと言えばあんまりな罪深い仕事が産まれます。こうして、国家公認の墓泥棒専門の官職 発丘中郎将・摸金校尉が正式に発足する事になるのです。まあ、生きている人間から資源を強奪するよりは、幾分かは、罪の意識が薄くなるとはいえ、あまり気持ちの良い仕事ではないですね。
名前も情けない 発丘中郎将・摸金校尉の意味とは
そもそも、発丘中郎将も摸金校尉も名前からして情けないのです。発丘は、「丘をあばく」という意味でした。
当時、墳墓は小高い丘の形で築かれたので発丘とは「墓をあばく」と同義になり、墓あばき中郎将になります。そして、摸金校尉の「摸金」とは、金属を探し求めるという意味で、金目のモノを求めて、荒野を彷徨う様が目に浮かびます。情報がないので断定は出来ませんが、この官職は、自ら志願する人はいなかったではないでしょうか。
もっとも、彼らの名誉の為に弁護すれば、本当の墓泥棒は、自分の私利私欲の為に墓をあばくのですが、彼らには、天下統一の為という理念があった事でしょうか。それに、墳墓だって侵入者に対して、何らかのトラップを仕掛けた危ない墓だってあったでしょうから、名前が情けない割にかなり墓泥棒としてのスキルも必要だったかも知れません。
曹操は墓あばきの自覚があり、自らは薄葬にしたのでは
墓を暴いて、その棺桶をばらして武器にした記述は、北伐時に陳倉城で諸葛亮孔明(しょかつ・りょう。こうめい)の猛攻に耐えた、魏の郝昭(かくしょう)の記録にも見られます。彼が息子に残した遺言によれば、
「私は長く将軍をやったから、将軍などというのは、大した仕事ではないという事を知っている。また、墓を暴いて武器を造ったりしたので死者に手厚い埋葬が無意味な事も知っている。私が死んだら、着のみ着のままで都合のよい場所に葬れ」
等と、醒めたような投げやりな遺言を残しています。これも、他人の墓とはいえ、墓をあばいて武器に当てた事を気に病んでいるとも取れる発言です。
そういえば、曹操(そうそう)も薄葬令を出して葬儀は質素にせよと遺言を残していますね。官職を制定してまで、組織的に墓あばきをした曹操としては、因果応報で考えると、自身もまた墓をあばかれるだろうと、予測していたのでしょう。
三国志ライターkawausoの独り言
この発丘中郎将、摸金校尉の記述は、曹操の陣営について記録した袁紹(えんしょう)軍の記述に出てくるそうです。と、言う事は、魏では、このような官職は恥として記録しなかったのでしょうか?
そうでなければ、急場しのぎで一時的に置いた官職だったので、物資が安定した事で使命を終え、廃止してしまったのでしょうか。以上は篠田耕一著 三国志軍事ガイド 99Pを参考にしつつKawausoの主観を交えて書いてあります。
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