島津斉彬と言えば、14代目の将軍を徳川慶喜にするために篤姫を13代将軍徳川家定の正室にしたことは有名です。これまで大河ドラマでも放送されています。篤姫について多くの人がスパイとか斉彬の命令に従順に従う人という印象を受けていると思いますが、この記事では篤姫は斉彬に従順に従っていなかったことを取り上げます。
最初に、篤姫について斉彬の実の娘かどうかについて取り上げます。それから、スパイだったという説について取り上げます。次に、篤姫と徳川慶喜との人間関係について、篤姫は慶喜を意外に嫌っていたという説があります。その背景について取り上げます。この記事の終わりに江戸城無血開城後の天璋院について紹介します。
この記事の目次
島津斉彬と天璋院篤姫は実の娘なの?
結論を言えば、島津斉彬と天璋院篤姫は実の娘ではありません。島津家の分家の島津忠剛の娘で、後に島津斉彬の養女になります。島津斉彬の養女になってから関白の近衛忠煕の養女となり、13代将軍徳川家定の正室となりました。13代将軍徳川家定は病弱で後継ぎができないことから後継者争いが起こり始めていました。開国という難局を乗り切れるのは徳川慶喜しかいないということで後継者に指名するように働きかけようとします。
慶喜を後継者にするための手段として、天璋院を13代将軍家定の正室にすることを考えます。なぜ幕府に天璋院が自分の娘であると嘘をついたのか。これまでに将軍の正室に薩摩藩出身の人はいますが、いずれも島津本家の人でした。分家では前例がないために正室にできないと判断した可能性があります。さらに関白の近衛忠煕の養女にすることで朝廷に慶喜を薦めることが考えられます。
天璋院は斉彬の言う通りに動くスパイだった?
13代将軍徳川家定の正室になるまで天璋院は父・島津斉彬の言う通りに動くスパイのような印象を受けると思います。大奥に入ってから斉彬の言う通りに動くスパイではなくなります。
天璋院が大奥に入った頃、徳川慶喜の実父・徳川斉昭は大奥に倹約するよう命じたことで嫌われていました。徳川斉昭の息子の徳川慶喜も大奥での評判は良くなかったと言われています。天璋院は大奥内で徳川慶喜の支持を得ることが難しいと判断したことから斉彬の操り人形で亡くなったことが考えられます。
斉彬の死後、天璋院はどうして徳川の女性になったの?
島津斉彬の死去の直前に13代将軍徳川家定が死亡しました。13代将軍家定が死亡したことから実家の薩摩藩に帰国することができました。実際に薩摩藩から帰国する申し出がありましたが、断ったと言われています。徳川家茂が14代将軍に就任する際、安政の大獄で朝廷と幕府の関係が悪くなっていました。
井伊直弼暗殺後、幕府は朝廷との関係を改善するために公武合体政策を進めました。その政策の一環として正室として皇女和宮が大奥に入ります。当初、天璋院と和宮の関係は生活習慣の違いで仲が悪かったのですが、後に2人の中が良くなったという記録が残っています。天璋院篤姫が薩摩藩に帰らず、徳川のために働くようになったのは和宮との関係が良くなったことが考えられます。
実は慶喜が大嫌いで将軍に就けたくなかった
天璋院は徳川慶喜が嫌いで将軍に就けたくなかったことはあまり知られていません。天璋院だけでなく、和宮も嫌いだったと言われています。なぜ徳川慶喜は嫌われていたのか。慶喜が大奥に倹約令を出したことが、慶喜を嫌う直接の原因になったと言われています。
倹約令だけでなく、慶喜の西洋かぶれも生理的に受け付けなかったと言われています。自己中心的な態度や大奥に声をかけなかったことも嫌われた要因になっているかもしれません。
江戸城無血開城後の天璋院
この記事の終わりに江戸城無血開城後の天璋院について紹介します。天璋院は東京都の千駄ヶ谷の徳川宗家邸で過ごしました。江戸城を離れてから徳川家の人間として振る舞い、元大奥関係者の就職や縁談のために奔走していました。
日本史ライターオフィス樋口の独り言
和宮や勝海舟と会っていたという記録も残っています。天璋院は1883年に49歳で死亡しました。死亡したときの所持金は3円(現在の価値で6万円)だったと言われています。天璋院が徳川家に残り続けた理由として、大奥で働いている女中を見捨てることができなかったことが考えられます。従業員を大切にする社長さんみたいな人かもしれません。天璋院が徳川家に残り続けた理由が分かる史料が発見されるかどうか、今後の研究に注目したいと思います。
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