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戦術苦手でも秀吉の右腕![石田三成の本当の実力]

2024年12月27日


 

 

司馬遼太郎(しばりょうたろう)の歴史大河巨編「関ヶ原」が8/26ついに全国の劇場で、放映されることになりました。小説「関ヶ原」の内容をざっくりと紹介すると豊臣家と徳川家が日本を真っ二つにして、天下の覇権をかけて行われた戦いであり、主人公で西軍の実質の総大将である石田三成(いしだみつなり)と東軍総大将・徳川家康(とくがわいえやす)の二人が近江・関ヶ原(せきがはら)の地で決戦。

 

石田三成

 

三成・家康を中心に関ヶ原に参加した日本全国の大名達全てに、焦点を当てた人間エンターテイメントとなっております。今回は西軍総大将・石田三成がどのように人物であったのか、以外とみなさんが知らない石田三成について迫ってみたいと思います。

 

 

監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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レン独自のアンケート:石田三成のみなさんのイメージとは

三国志ライター黒田レン

 

黒田レンは猫であり、餌をもらうために昼夜色々な人と知り合っておりますが、いくつかの知り合いの人々へ「石田三成ってどんなイメージですか」と訪ねてアンケートを取ってみました。すると意外な反応が帰ってくることになります。

 

自分に人望がないことに腹を立てる石田三成

 

まずは歯科技工士をしている方に「石田三成ってどんな人ですか」と訪ねてみました。その結果「三成は頭がいい。だけどみんなから嫌われている人じゃないかな」と解答していただきました。更にある会社の社長さんに「三成ってどんな人だと思いますか。」と質問してみました。すると「あいつは馬鹿だ!!家康に戦を挑んでボコボコに負けてるし。あいつが家康に挑んだせいで豊臣家は滅亡へまっしぐらになったんだから」と辛口コメントをいただきました。

 

他にも「三成は政治家としては一流だけど・・・・。戦術家(家臣に島左近がいても)二流で、戦略家としては徳川家康の足元にも及ばないじゃん」など結構辛口イメージをいただきました。レンのアンケートに答えていただいた方この場をお借りしてですが、本当にありがとうございました。さてこのように石田三成のイメージは結構辛口の意見が多いのですが、果たして上記のようなイメージ通りだったのでしょうか。石田三成のプロフィールからご紹介していきたいと思います。

 

 

石田三成ってどんな人かざっくりと説明するよ羽柴秀吉へ差し出した「三杯の茶」から歴史の表舞台へ!?

徳川家康vs石田三成(関ヶ原の戦い)

 

石田三成(いしだみつなり)。豊臣秀吉(とよとみひでよし)に仕え、豊臣政権内では官僚として能力をいかんなく発揮していくことに。三成は豊臣秀吉の死後豊臣家を守るため、三成よりも数倍戦上手で天下の諸大名から人望もあり軍事力も天下一である徳川家康と天下を二分して争った武将として歴史に名を刻むことになります。

 

ざっくりと上記で三成の経歴を説明しました。しかしこれだけでは石田三成の凄い所が全然わからないと思います。そこで三成がどれくらい優れていた人物であるかをお伝えするため。幼少期の三成エピソードである「三杯の茶」をご紹介しましょう。

 

 

石田三成は幼少期に秀吉へ「三杯の茶」で才知見せびらかしたってほんと!?

 

石田三成は近江(おうみ)の石田村で生まれます。幼少期は佐吉(さきち)と呼ばれており、幼い頃から学問を学ぶために寺へ預けられておりました。三成は寺に預けられて勉学に励んでいた頃、織田信長(おだのぶなが)によって近江の大名であった浅井長政(あざいながまさ)が滅亡。

 

そして近江は信長の家臣であった羽柴秀吉(はしばひでよし)が領有することに。秀吉は領内視察や優秀な人材を発掘する目的から鷹狩りを領内で催しておりましたが、喉が渇いて三成が預けられていた寺に立ち寄ります。秀吉は寺の小僧として働いていた三成に「茶をくれないか」と所望。

 

三成は秀吉の様子を観察してぬるめのお茶を献上します。秀吉は三成からもらったぬるめのお茶を一気に飲み干して「もう一杯くれ」とお願いします。三成は秀吉の様子を再度観察した後、再び奥へ入ってさっきよりも熱めのお茶を入れて秀吉へ渡します。秀吉は少し熱くなっているお茶を飲み干して「いいね君!!もう一杯くれないか」と要望。

 

三成は再度奥へ行ってさっきよりも熱めのお茶を茶碗に入れて秀吉へ渡します。秀吉は三成が入れてきたお茶をゆっくりと飲み干した後、「おみゃさん。中々気が利いているのう。俺んとこに仕官しないか。」と誘います。三成は秀吉の誘いを受けて羽柴家に仕官することに。このエピソードを後年「三杯の茶」と言われるようになり、幼少期の石田三成と羽柴秀吉との出会ったお話として長く伝えられることになります。そしてこのエピソードは司馬遼太郎が書いた関ヶ原にも記載されているので、気になる方は映画・関ヶ原が放映される前に一読してみてはいかがですか。閑話休題・・・・。

 

さてこの幼少期の石田三成のエピソードから分かることは、三成が人をよく観察している点と機転の利く才能を持っていたことが、お分かりになるのではいのでしょうか。幼少期からかなりの才知を持っていた石田三成は秀吉の部下となりますが、果たして秀吉の元でどの程度活躍し、秀吉に取って三成がどれほど役に立っていた武将なのでしょうか。次は秀吉の配下となった三成がどれほど役に立っていた武将であったのか、ご紹介しましょう。

 

 

秀吉の重要な家臣であった三成の凄い所その1:優れた統治力

 

上記で石田三成は幼少期から人間を観察する能力に長けており、機転が利く才知を有していた優れてた人物であることをご紹介しました。羽柴秀吉は三成の才知が優秀であったため、寺から引き取って自分の家臣として仕えさせることにします。では三成が羽柴秀吉の部下として仕えた後どの程度の力を秀吉の元で発揮し、羽柴秀吉にとって三成がどのくらい重要な家臣だったのかご紹介しましょう。

 

黒田レンが分析した三成の能力の中で特に秀でていると感じているのは、

 

1内政に関する能力。

2戦場で必要となる物資を計算して輸送する能力が図抜けていたと言えるでしょう。

 

まずは内政に関してです。石田三成は秀吉から長年の功績が評価され、近江・佐和山(さわやま)に19万石をもらいます。三成は佐和山城主として大名に出世しますが、秀吉の政権で奉行として仕事していたことから多忙を極めており、佐和山の内政は父・石田正澄(いしだまさずみ)に任せっきりでした。

 

しかし三成は多忙を極める豊臣政権の仕事の合間に暇を見つけて、佐和山の内政にも目を配っておりました。三成は佐和山の統治において厳格な法律を制定しております。一体三成はどのような法律を用いて佐和山を治めていたのでしょうか。三成は佐和山領内に住んでいる領民の耕作地や年貢・年貢率に関しての規定、訴訟など細かく法律を定めていきます。この結果、三成の領内で盗賊が出現することなく役人達もズルをして、農民から多くの年貢を取り上げて懐にいれるような横暴な事をしませんでした。

 

また三成が治めていた佐和山には鉄砲鍛冶達が住んでいる有名な国友村(くにともむら)がありました。石田三成はこの国友村の鉄砲鍛冶達へ鉄砲作りを奨励して、石田家の軍事能力の強化と鉄砲の生産能力を向上に協力をしております。余談ですが、国友村に援助していたことが関ヶ原の戦いで、石田家の軍勢が活躍することになります。三成は国友村へ大砲の製造を依頼しておりました。国友村の鉄砲鍛冶衆は三成の依頼を受けて大砲の製造を行います。この結果石田家は関ヶ原の戦いに大砲を有することに成功し、関ヶ原の戦いで東軍へ国友村が作ってくれた大砲をぶっぱなして、東軍諸将へ甚大な損害を与えております。再び話題が連れてしまい申し訳ないです・・・・。

 

上記の事から三成が大名として統治能力に優れていたと言えるのではないのでしょうか。次に三成の優れていた点である物資輸送能力についてご紹介しましょう。

 

秀吉の重要な家臣であった三成の凄い所とはその2:兵站線構築の達人

 

戦国時代は敵国へ攻め込む際、自前で兵糧を持ってくるのですが、攻城戦などで兵糧が不足して足りなくなれば現地の農民達から奪って、兵糧を補給する方法を取っていました。だが石田三成は現地で兵糧等を調達するのではなく、自国から兵站線をしっかりと確保して戦場で戦っている兵士達へ必要な兵糧や武器・武具などを輸送する達人でした。

 

本当に三成が兵站線の構築のプロであったのか示すエピソードが残っているので、ご紹介しましょう。豊臣秀吉は豊臣政権に敵対行動を取る九州の島津氏を討伐するため、九州征伐を行うことにします。秀吉は豊臣政権に参加している諸大名へ九州に出陣するよう命令。

 

明国制圧の野望を抱く豊臣秀吉

 

秀吉が計画した九州征伐に参加した諸大名の総勢はなんと25万人以上と言われ、途方もない軍勢が九州へ出陣することになります。石田三成は秀吉から25万人以上が消費する兵糧や武器・武具、鉄砲の弾薬などの兵站線を整えるように命令を受けます。三成は秀吉から命令を受けると早速25万人が全体で消費する兵糧等の試算と25万人が一日で消費兵糧などの量を算出。そしてどのようにして九州へ輸送するのか輸送計画を立案。

 

三成はこれらを計算した後、現地の兵士達へ兵站を構築して物資を輸送することに成功します。三成のおかげで九州征伐に参加した豊臣政権の諸大名達は、戦いの最中に兵糧切れを起こすこともなく、弾薬切れを起こして敗北することなく戦いを継続することができ、島津家を征伐することに成功するのでした。地味だけど戦場ではかなり重要な兵站線を構築して戦に貢献していた石田三成。上記の事から石田三成は物資を調達して前線の兵士達へ輸送する兵站線構築の達人と言えるでしょう。

 

また当時の戦国時代の武将達で石田三成クラスの兵站構築のプロフェッショナルは、ほとんどいない事から豊臣秀吉にとって石田三成が重要な家臣の一人として、重宝していた可能性はかなり高くその証左として三成を豊臣政権の重要なポストである五奉行に就任させたことからもお分かりになると思います。

 

 

三成は戦が上手だったのか??

 

豊臣政権では数多の戦場を往来してきた戦国大名の生き残りや武将達が、多く政権に参画しております。石田三成は文官として非常に優秀な人物でありましたが、戦場に出て活躍していたのでしょうか。ここでは石田三成の戦歴についてご紹介しながら、三成が戦に対してどのような戦術を駆使していたのかもお伝えしたいと思います。

 

石田三成は戦がうまかったのか!?その1:館林城の戦い

 

豊臣秀吉は九州の島津氏を降伏させて豊臣政権に参加させます。こうして天下の大半の大名が秀吉に服属することになりますが、まだ秀吉の政権に参加していない大名が残っておりました。それは関東~奥羽(おうう)に割拠している大名達です。

 

関東には関東全域に長く君臨して覇者としての地位を確立していた戦国最強の北条氏が、残っていました。そして奥羽には独眼竜で有名な伊達政宗(だてまさむね)が、会津(あいづ)の蘆名(あしな)氏を討伐し、領土拡大に励んでおりました。秀吉は残った関東の北条氏、奥羽の伊達氏を討伐して豊臣政権に参画させるため、北条氏に豊臣政権へ参加するように呼びかけます。

 

北条家の当主・北条氏政(ほうじょううじまさ)は秀吉の呼びかけに応じることなく、豊臣政権に服従しませんでした。秀吉は氏政が呼びかけに応じないことにイライラしておりましたが、北条家が豊臣政権に参加するための餌として、真田家が領有していた上野(こうずけ)の沼田城(ぬまたじょう)を北条家に差し出して、再度豊臣政権に参加するよう呼びかけます。北条家は秀吉から長年欲していた沼田城を手に入れて大喜びしますが、豊臣政権へ参加する意思を見せませんでした。そればかりか北条家は沼田城近辺にあった真田領・名胡桃城(なくるみじょう)に攻撃を仕掛けて、陥落させてしまいます。

 

織田信長が亡くなりショックを受ける豊臣秀吉

 

豊臣秀吉は北条家が勝手に名胡桃城を攻撃して手にしたばかりか、沼田城を割譲したにも関わらず豊臣政権へ挨拶にも来ない態度に激怒して、「マジおこですわ!!北条のジジイめ!!たたきつぶしてくれるわ」と激怒。豊臣秀吉は北陸・東海・中部地方などにいる諸大名へ命じて、

 

関東へ出陣するように命令を出します。三成はこの時、関東の下総(しもうさ)・上総(かずさ)に拠点を置く佐竹(さたけ)家、結城(ゆうき)家、宇都宮(うつのみや)家等の諸将の軍勢を率いて、上野(こうずけ)の館林城(たてばやしじょう)へ攻撃を仕掛けます。三成率いる軍勢は館林城へ猛攻を仕掛けますが、篭城している北条軍の必死の防衛と館林城が、城の東南に沼を設けている城で防備が重厚であった事から、陥落させることができませんでした。三成は一旦攻撃を中止してひとつの作戦を立てます。

 

それは城の東南になる沼を埋め尽くして道を作り、この道から城へ攻撃をする作戦を計画します。三成が立てた計画は発動することはありませんでした。その理由は館林城の城主が豊臣秀吉に降伏したためでした。そのため戦では三成の戦での働きがどのようであったのかあまりわかりません。しかし三成は館林城の東南になる沼に目をつけて、ここから館林城へ攻撃しかけて陥落させようと考えていたことから、戦術眼については非凡な物をもっていたような気がします。だが三成の作戦計画を実行に移していないため、三成が立案した作戦計画が実行に移された場合、どのような結果になったのか分からない為何とも言えませんが・・・・。さて次はあの映画で一躍有名になった三成の戦についてご紹介しましょう。

 

 

石田三成は戦がうまかったのか!?その2:忍城の戦い

 

三成は館林城を受領した後、武蔵(むさし)の忍城(おしじょう)攻略へ向かいます。忍城は関東七城(かんとうななじょう)と言われる程の名城で、忍城の城主は成田氏長(なりたうじなが)でした。しかし成田氏長は北条家の本拠地・小田原城の篭城戦に加わっていたため、忍城には成田長親(なりたながちか)や甲斐姫(かいひめ)達が篭城しておりました。

 

この忍城の戦いは風野真知雄(かぜのまちお)の歴史小説「水の城いまだ落城せず」や映画・のぼうの城(和田竜・原作)などで一躍有名になった戦いです。歴史小説「水の城いまだ落城せずと「のぼうの城」に共通している点は、三成が忍城へ水攻めを行うも失敗してしまいますが、最終的に成田長親を降伏させることになる点です。こうして忍城攻略戦は終幕を迎える事になるのですが、果たして史実の忍城攻略戦はどのように推移していったのかご紹介していきましょう。

 

 

史実での忍城攻略戦での石田三成の働きとは!?

 

忍城は荒川や星川などの河川が流れており天然の堀となっております。さらに忍城内には領民などが篭城戦に参加しており総勢3500人ほどの人数が篭城し、士気も非常に高かったそうです。石田三成は忍城に到着すると諸将を監督して攻撃を行います。だが忍城へ攻撃を仕掛けた豊臣軍は篭城軍の攻撃によって撃退されてしまうのでした。そこで三成は備中高松城(びっちゅうたかまつじょう)で、豊臣秀吉が行った水攻めを思い出しこの作戦の実行を閃きます。

 

三成は元々作ってあった堤防を延長する工事を昼夜突貫で行い、5日の内に堤防工事が終了することになります。石田三成は堤防工事が完成すると忍城へ水を流し込んで行きますが、備中高松城で行った水攻めのように城を水没させることに失敗してしまい、城が水の中に浮いているような状態になってしまいます。しかしこの水攻めによって城中の兵士達は兵糧を補給することができなくなり、困窮してしまいます。

 

だが成田長親以下忍城に篭城している将兵達は、水攻めを受けても豊臣軍に降伏することなく篭城戦を継続していきます。三成は援軍にやってきた浅野長政(あさのながまさ)や真田昌幸(さなだまさゆき)らの軍勢と協力して忍城へ総攻撃を開始。この総攻撃は忍城に篭城していた軍の必死の防戦によって、大損害を受けてしまう結果になり失敗に終わってしまうのでした。その後忍城攻防戦は北条家の小田原城が陥落して北条家が滅亡した後も続いていき、秀吉の使者として成田長氏が降伏勧告を行ったことで、ようやく忍城は篭城戦を諦めて豊臣家に降伏することになります。

 

忍城攻防戦での石田三成は水攻めを計画したところまでは非凡でしたが、水攻めで忍城は水没することなく城の周りを水浸しにしただけの中途半端な状態になってしまいます。ですが三成が計画した水攻めは、忍城に篭城していた将兵達を困窮させる事に成功したためある意味成功と言えるでしょう。だが石田三成が行った水攻めのせいで周りの土地が液状化してしまい、水が引いた後に忍城へ攻撃を行った際非常に攻めにくく、三成率いる豊臣軍が忍城へ総攻撃を行った際難渋したそうです。また忍城の戦意が高かったことも三成にとって不運であったでしょう。忍城の戦意の高さを差っ引いても三成の戦術眼は非凡な所もあると思います。

 

しかし戦場での指揮に関してはあまり得意ではないと考えられるでしょう。三成は自らが戦術面が苦手としていることを自覚しており、苦手としている戦術面を克服するため、名将と言われていた島左近(しまさこん)や舞兵庫(まいひょうご)、蒲生郷舎(がもうさといえ)などの武将達を召抱えて、自らの欠点である戦術面を補っております。このことから三成は戦がうまかったわけではなかったが、自分の苦手な面を克服しようとする努力家であったと黒田レンは考えております。

 

 

石田三成は義理人情に厚い人物だったのか

 

文官として非常に優秀な人材で豊臣秀吉からも重宝されていた石田三成。しかし完璧な人材ではなく戦は不得手でありました。

 

豊臣秀吉の家臣で勇猛果敢な福島正則

 

また人柄としても横柄な部分を持っており、福島正則(ふくしままさのり)や加藤清正(かとうきよまさ)などから嫌われておりました。そんな石田三成ですが実は・・・・義理人情に厚い人物であったことを知っておりましたか。ここからは三成が義理人情に厚い人物であったことをご紹介していきたいと思います。

 

 

石田三成が義理厚い人物だったエピソードその1:他人の為に一肌脱いだ三成の意外なエピソードとは!?

 

三成のアンケートの答えの中で「三成は人から嫌われている」との解答がありました。確かに三成は大勢の人から嫌われていましたが、意外にも義理人情に厚い人物であったのです。三成がどれほど義理人情に厚いのかご紹介していきましょう。

 

中国大返し(豊臣秀吉)

 

豊臣秀吉(とよとみひでよし)は、天下を統一することに成功すると諸大名を集めてお茶会を開きます。石田三成は秀吉に呼ばれてこのお茶会に参加することになりますが、このお茶会には病によって皮膚がボロボロになっていた大谷吉継(おおたによしつぐ)も秀吉に呼ばれてお茶会に出席しておりました。

 

大谷吉継

 

大谷吉継は三成と仲良くもなく悪くもなく、普通の知り合い程度の関わりしか持っていませんでした。そのためお茶会の席であっても互いに目礼する程度の仲であったそうです。そんな二人はお茶会の席に着くと主人役であった秀吉が、お茶をお椀に入れて諸大名に渡します。秀吉からお椀に入ったお茶をお茶を渡された諸大名は一口飲んで、次の大名に回していきます。

 

石田三成に加勢した大谷吉継

 

こうして次々にお茶会に参加した諸大名がお茶を飲んでいく中、ついに大谷吉継にお茶の入ったお椀が回ってきます。大谷吉継は自分が病にかかっていることから、諸大名が自分の後にお茶を飲むのを嫌がるであろうと考えて、お茶を飲むふりをして次の大名に回すことに。しかしこの時、吉継の顔の皮膚から膿がお椀の中に落ちてしまい、この様子を見ていた諸大名はドン引き。

 

そして諸大名は吉継から回ってきたお茶が入ったお椀を手に取るとお茶を飲むふりをして次々とまわしていきます。そして三成の元へお茶の入ったお椀が回ってくることになりました。諸大名は三成がどのように対応するのか見ておりました。三成は自らの元にお茶の入ったお椀が回ってきたとき、諸大名の目を気にすることなくグイっと膿入りのお茶を一気に飲み干したそうです。

 

こうしてお茶会は終わることになります。大谷吉継は三成のこの行動をみて感動しておりました。このお茶会がきっかけとなって三成と吉継は、友人として密接な関係を築いていくことになります。戦国時代も現代も膿が入っているお茶なんて飲みたいとは思いません。もちろん黒田レンもそうです。しかし三成は膿が入っているお茶を気にする様子もなくグイっと飲み干しており、義に厚い人物と言えるのではないのでしょうか。そしてもう一つ三成が義理人情に厚いエピソードをご紹介しましょう。

 

 

石田三成が義理厚い人物だったエピソードその2:恩には誠意をもって返していた

寿命で亡くなる豊臣秀吉

 

豊臣秀吉が亡くなると豊臣秀吉に従っていた諸大名は、次の時代を担う人物として徳川家康へ媚を売って行きます。しかし石田三成は秀吉から多大な恩を受けていた事から、徳川家康へ媚を売らずに豊臣政権を守る側に立って豊臣政権に全てを捧げて、支えていきます。

 

三成は以前から奉公人の心構えとして「君主を精神面において尽くすだけではなく、物資面においても君主に全て捧げるべきである」と述べていました。この三成の言葉は老人雑話(ろうじんざつわ)という書物に記載されております。このお話は多少話を盛ってあるかもしれません。

 

しかし三成は豊臣政権へ捧げるために無駄な経費をできるだけ節約しており、佐和山城の三成の居室には板張りで作くり、佐和山城の城壁も荒壁でできていたそうです。これらから石田三成が自分に恩を施してくれた人物に対しては最大限の誠意を用いて、尽くす姿勢を見て取れるのではないのでしょうか。そして上記の事を証左として三成が義理人情に厚い人物であったと考えるのは黒田レンだけでしょうか。

 

 

淀殿とは噂通りの関係であったのか!?

 

現代でも不倫はとても褒められた行為ではありません。先日国会議員が不倫をしてかなり叩かれております。このように不倫は人道に悖る行為として大変忌み嫌われております。これは戦国時代でも現代と変わらず不倫は、やってはいけないこととして人々から忌み嫌われておりました。

 

しかしこの人道に悖る行為である不倫を石田三成が、していたと当時言われていた事をご存知ですか。石田三成は近江出身の武将でした。そして豊臣秀吉の側室となって豊臣秀頼(とよとみひでより)を生んだ淀殿。三成と淀殿は同じ国の出身であることから二人は不倫しているんじゃないかと当時から噂されておりました。しかしこれは全くの事実無根です。三成は「うた」と言われる正妻を持っており、側室を他に作らないほどこの奥さんを大事にしていたそうです。そのためこの淀殿との不倫話は全くの事実無根の作り話であったと思われます。

 

 

加藤清正とは因縁の相手だったのか!?

 

石田三成は秀吉の小姓として、加藤清正と一緒に過ごしていた時期がありました。そのため大谷吉継のような親友ではありませんでしたが、加藤清正とは険悪な状況ではなく知り合い程度の付き合いでした。しかし朝鮮へ出兵時に起きた事件によって三成と清正の関係は、最悪な状況になってしまいます。

 

清正は朝鮮へ出兵した際、日本軍の先鋒として先陣として朝鮮半島で朝鮮軍と戦を行っておりました。他に清正と一緒に日本軍の先陣として小西行長(こにしゆきなが)が、清正と一緒に先陣として朝鮮軍と戦っており、日本軍は清正・行長のツートップで戦いを進行しておりました。朝鮮半島で勝利を重ねているときは清正・行長の先陣部隊は多少の諍いはあっても、憎しみあうほどいがみ合うことなく、相談しながら機能しておりました。しかし朝鮮半島の危機を知った明が大軍を朝鮮半島へ送って、日本軍の先鋒隊である清正・行長へ攻撃を仕掛けていき、日本軍と明の大軍との間で激しい戦を勃発することに。明軍の猛攻で戦に勝利できなくなってくると清正・行長の仲は次第に悪くなってきます。

 

小西行長は三成と仲が良かった事から清正をどうにかしてくれと相談。三成は行長の相談を聞き入れて秀吉へ「加藤清正は私の調査によると三つの罪を犯しております。まず一つ目は清正が朝鮮人達に対して小西行長の事を「あいつはただの商人だ!!」と悪口を言って評判を落としていた。二つ目は明への書面で秀吉の許しなく「豊臣清正」と名乗っていたこと三つ目は清正の家臣の足軽が明の使節から金銭を強奪したこと以上三つの理由から清正を本国へ召喚して罰するべきである」と秀吉へ提案。

 

秀吉は三成の提案を受け入れて清正を伏見へ呼び寄せて、自宅謹慎するように命令します。清正は三成が秀吉へ讒言を行ったせいで、自分がこのような仕打ちを受けているのだと考え、三成へ憎しみを抱くことになるのでした。加藤清正は朝鮮での戦いが終結し、秀吉が亡くなった後も三成から受けた仕打ちに対しての恨みを忘れることなく抱いており、三成が西軍に着くと三成憎しの思いから東軍へ付いたと言われていたそうです。また加藤清正だけが三成を恨んでいたわけでなく、清正と仲が良かった福島正則や黒田長政(くろだながまさ)などの武功派と呼ばれる人達が、三成を嫌い抜いておりました。

 

三国志のモブ 反乱

 

文官と武官の争いは戦国時代に限らず、足利幕府や古代中国などでも起こっております。三成はインテリ気質で横柄な態度を取っていることがしばしば有り、この性格のせいで清正に嫌われていただけでなく多くの人々から嫌われていたそうです。

 

 

戦国時代ライター黒田レンの独り言

 

三成は戦術を苦手としており、関東征伐の忍城攻略戦での成果が物語っていると言えるでしょう。しかし関ヶ原の戦いでは大砲を野戦で使用して、効果的なダメージを東軍諸将に与えていることから一概に戦術面が苦手な人物として、挙げられないのではないのでしょうか。

 

そんな三成ですが文官としての能力は非常に優秀であり、兵站線を整えて補給する能力や自分の領内を統治する能力についても申し分ない実力を示しております。また豊臣政権においても重要な人物として扱われており、太閤検地を全国各地で施した人物として知られております。

 

このように一番最初で記したアンケート通りの三成のイメージと言えるのではないのでしょうか。しかし石田三成が義理人情に厚い人物であったことは、意外に知らない人が多いと言えるでしょう。映画・関ヶ原がもうすぐ公開ですが、果たして今回ここで列記してきた石田三成についてどれほど描かれているのか。はじめての三国志で紹介された石田三成が映画・関ヶ原に描かれている石田三成とどれだけ合致するのか映画・関ヶ原を見て答え合わせするのもいいかもしれませんね。

 

参考 吉川弘文館 石田三成 今井林太郎著など(写真引用元:関ヶ原公式サイト)

 

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黒田廉(くろだれん)

黒田廉(くろだれん)

三國志が大好きです。オススメのマンガは曹操を描いた蒼天航路がオススメです。三國志の小説のオススメは宮城谷昌光氏が書いた三國志です。好きな食べ物はマグロ、ぶり、アジが大好きな猫です。

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