今回は渤海国が最盛期を迎えたと言われる、3代目の王「大欽茂」の時代についてお話します。
大欽茂は「文王」とも呼ばれ、文治政治に似たやり方で、渤海国を平和文化国家として導いたと言われることもあるようです。しかも、その治世は57年続いたというのです。(在位期間は737年〜793年)どのような治世だったのでしょうか?詳しく見ていきましょう。
二代目「武王」の政策を継承
調べていきますと、大欽茂の治世の初期は、北方へ領土を拡大する政策を進めていたのがわかります。それは、先代の「大武芸」の政策を引き継いだように見えます。大武芸の代に領土に組み込まれた地域の住民で、「北部靺鞨系」と呼ばれていた諸民族を確実に支配下に置く目的があったようです。
ただ、素直に従わなかった諸民族たちもいて、外国へ亡命する者たちも出てきたのです。その中には、日本の「出羽」(山形県と秋田県)地域へ向かった者たちがいたという事実があるのです。このあたりは、別の機会に記したいと思います。
玄宗皇帝も翻弄した?堂々たる姿勢
それで、当初は大武芸の政策を引き継いでいたように見えていた大欽茂でしたが、ある事変を機に、領土拡大の政策から一転し、「鎖国」とも取れるような、防衛を重視する政策へと変わっていったように見えるのです。
その事変とは、唐帝国の内乱、つまり、有名な「安史の乱」(755年〜763年)なのです。ここで、「安史の乱」の説明を簡単にします。これは、唐の家臣「安禄山」と、その部下の「史思明」が、当時の唐の皇帝「玄宗(李隆基)」に反旗を翻した乱でした。
切っ掛けは、玄宗の側室の「楊貴妃」の親族である「楊国忠」が宮廷内で権力を強め、それに対して、安禄山が反感を抱き、対立したことから始まったようです。つまり、家臣同士の争いから始まった訳ですが、当時の玄宗は、老年で政治には関心を示さず、側室であった、絶世の美女と評判の楊貴妃に魅了され、溺れていた様子だったと伝えられています。ですから、家臣たちから玄宗に対しての反感も強くあったのだろうと推察できます。
安禄山の反乱軍は、一度は、長安の都にも侵攻し、「燕」という国を打ちたてました。玄宗は、四川地域の辺境に逃れる事態になったのでした。それに対して、渤海国王の大欽茂の対応は?と言いますと、唐帝国側からも、安禄山の反乱軍側の双方から援軍を要請されるも、どちらにも属せず、慎重に見守る姿勢を貫いたようです。ここで、渤海国側が、隙を狙って「遼東半島」を制圧したという説もありますが、裏付けが弱いようです。
このように、渤海国は「安史の乱」の間、唐とは距離を取っていたのです。ただ、国交断絶だったという訳ではなく、その間に2回は、唐の宮廷に遣使をしていたということです。乱が治まることを見越していたのかもしれませんし、そうでなくても、勝馬に乗り換えるという狡猾さも持っていたとも言えるでしょうか。
乱が終結すると、玄宗皇帝は強制的に退位させられます。762年、唐の11代皇帝「代宗」が即位すると、代宗は、大欽茂に「渤海国王」の称号を与えたと言います。それまで、初代大祚栄にも、二代目大武芸にも、唐は「渤海郡王」の称号しか与えていませんでした。「郡王」から「国王」へと格上げするような待遇をしたのです。
唐の宮廷は、明らかに渤海国を警戒しつつも、敵に回さないようにと判断した結果でしょうか。しかも、この待遇を受けたのは、歴代の渤海国王の中では、大欽茂だけだったと言われています。安史の乱の後、渤海国では、唐への使節団の派遣を増やしたと言われています。大暦年間(766年〜779年)には25回も派遣されたとも伝わっています。さらに、日本へも度々、使節を派遣しています。770年代には、4回は派遣したと伝えられています。
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度重なる遷都の謎?
渤海国は、その歴史において、幾度も、首都が変わるという「遷都」が行われています。初代・大祚栄から二代目・大武芸までは、牡丹江上流の敦化盆地に首都があったと言われています。その都は「旧国」と呼ばれています。
【ここでの「国」とは、「都」の意味です。「杜甫」の詩で有名な「国破れて山河あり」も「都」の意味で詠んだそうです。それは、長安の都のことで、「安史の乱」の混乱を嘆いた詩とされています。】
ただ、現在、その旧国の遺跡はまだ発見されていません。山間のおかけで防衛に適した、臨時的な都だったという見方が有力です。
それが、大欽茂の代では、急に首都が幾度も変わります。まず、その治世の初期には、南方に遷都します。これが「中京顕徳府」です。(現在では、中国の吉林省和竜市付近)唐の都の長安の方面だけでなく、すでに交流が始まっていた日本にも近くなったのです。交通の要衝と言える、四方へスムーズに移動しやすい場所だったようです。しかし、それが、天宝年間末期になると(750年代前半と言われていますが)、首都が北へと移動します。(唐の年号の天宝年間は【742年 〜756年】)
この都は「上京竜泉府」と名付けられました。(現在の中国の黒竜江省寧安県付近)唐の長安の都に倣い、大規模な都だったようです。しかも、この地は、元々、大武芸時代に屈服させたと言われる、「北部靺鞨系」の諸民族の居住地であり、北方の盆地に向けて、開けた要に位置し、北進するには都合のよい、侵略拠点だったと見られています。
しかし、首都移転直後に、安史の乱の勃発により、状況は一変したのです。唐が滅亡寸前に追い込まれたのです。反乱軍勢力が渤海国へ侵攻してくる恐れもある、と大欽茂は考えたかもしれません。そのため、北方進出のために軍を動かそうとすることは諦めたように見えます。
【※以前までなら、この遷都は、同時期に勃発した「安史の乱」の影響によるもの、という説が有力でした。つまり、巻き込まれないために、北上させたということです。しかし近年は新しい説に傾きつつあるようです。】
そして、安史の乱が終息しても、北進の様子は見られず、大欽茂の治世の晩年の頃には、首都を南方の海側の「日本海」近くへと遷都します。(785年〜790年頃の間のことのようです。)「東京龍原府」と名付けられました。(現在の中国の吉林省琿春市付近)この遷都は、日本との交流を強めようとしたとも考えられるのですが、研究者の間でも意見は割れ、理由は、はっきりと分かっていません。
しかし、793年に大欽茂が死去し、57年間の治世を終えると、後継者争いで渤海国内は乱れます。数年後、首都は再び北方にある「上京竜泉府」に戻るのです。大欽茂の治世の間で、最も長く(約40年もの間)都城とされていた箇所なので、慣れ親しんだ所だったでしょうか。ただ、他にも副都のような性格の都城がいくつか建設されていたのです。
「南京南海府」
「西京鴨緑府」
しかし、この二つは、首都になることはなかったようですが、いざというときのために都城にふさわしい都市の整備はされていたようなのです。つまりは、多くの人民が労働人員に駆り出され、多大な犠牲もあったと想像してしまいます。
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エピローグ
大欽茂の死の直後は、後継者で乱れた期間はあったようですが、以降、概ね文治・文化国家として続いたという見方が強いのです。ただ、「文王」と呼ばれた3代目の「大欽茂」でしたが、北方進出を伺う様子を見せたり、南方の日本との交流を深めようと見せたり、首都を幾度も遷都させ、行動的な性格の国王だったという見方ができます。
また、安史の乱のような大混乱の時代の中で、時勢を見極める、慎重さを持ち合わせた人物だったようです。「文王」というよりは、「忍耐の王」だったように見えてくるのです。結果的に、半世紀の長い治世において、国家を大規模な争乱に巻き込まれずに済み、安泰させることができたのです。そして、その後、百数十年間、渤海国は文化国家として、隣国に比べると十分に平和安泰といえる道を歩むことになるのです。それでは、次回は、渤海国が日本と深く交流していたエピソードを幾つかご紹介します。
お楽しみに。
【主要参考書籍】
・『渤海国の謎』(上田雄 著 / 講談社現代新書)
・『渤海国とは何か (歴史文化ライブラリー)』(古畑 徹 著 / 吉川弘文館 )
・『隋唐帝国』(布目 潮渢 著 / 栗原 益男 著 ・講談社学術文庫)
・WEBサイト『世界の歴史まっぷ』より「渤海国の地図」
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