関ヶ原の戦いについて紹介します。豊臣秀吉の死の2年後、1600年に行われた徳川家康と石田三成による天下分け目の戦い。この戦いが行われた背景やその原因について。また当日の両軍の布陣や人数など。気になる点についてひとつずつ検証して行きます。
この記事の目次
関ケ原の戦いとは?
関ヶ原の戦いは、豊臣秀吉が亡くなった後に行われた天下分け目の戦いです。100年以上続いた戦国の世は、織田信長の台頭により終結のめどが立ち、それを達成したのが秀吉。しかしこれは、あくまで秀吉の個人的なカリスマで維持されておりました。
そして晩年に生まれた子・秀頼が幼少のうちに秀吉は亡くなってしまいます。そこで当時最も力を保持していた徳川家康が、天下を狙うべく動き始めます。秀吉亡き後の豊臣政権と対立。豊臣政権側では石田三成ら奉行が中心となり家康に対抗します。
家康が上杉討伐を口実に軍を東に動かすと、豊臣政権側も立ちあがりました。こうして家康の東軍と三成の西軍が1600年に岐阜の関ヶ原で激突。応仁の乱は11年続きましたが、こちらの戦いはたった1日で決着が付きました。
そして家康が勝利し、豊臣政権は崩壊。豊臣家は地方大名となり、徳川家が変わって天下を取り、その3年後に江戸幕府が始まるのです。
関ケ原の戦いの原因
関ヶ原の戦いの原因は、豊臣秀吉の死後における天下を巡る争いでした。秀吉は1582年にそのカリスマを武器に全国を統一します。ここで戦国の世が終わったかのように見えました。
ところが秀吉はそこからさらなる野望を持ってしまいます。それは唐入りと言われる政策。大陸の明への侵攻をもくろんで、2回の朝鮮出兵を行いました。そのため天下統一後も各大名は強大な軍事力を有していました。
さらに当初の後継者としていた甥の秀次に関白職を譲った後、実子の秀頼が生まれます。その結果、謀反の疑いをかけて秀次を死に追いやります。ところが残された幼い秀頼を5大老、5奉行に託して秀吉が死去。
秀頼が当主という脆弱な豊臣政権に代って天下を狙おうとしたのが、秀吉の次に力を持っていた徳川家康です。一方秀吉の時代から側近として豊臣政権のやり取りをしていたのが石田三成ら奉行たち。
豊臣政権を守ろうとする三成を中心とした奉行たちと、天下を取る野望を持つ家康の対立が始まりました。そして上杉景勝に謀反の疑いをかけて家康は越後に派兵。家康が出た後、三成ら奉行たちが挙兵し家康と激突します。
関ケ原の戦いの火ぶたはいつ切られた?
関ヶ原の戦いは、午前10時ごろに始まったとされます。東軍の徳川方は、家康側の東軍の兵力は10万近く、三成側の西軍は8万ほどでした。(いずれも諸説あり)家康の徳川軍の多くは、合戦に間に合わなかった秀忠軍で、実際には2・3万近く少ない軍勢でした。
当日の布陣ですが関ヶ原が軍事上重要だと考えていた石田三成は、見おろす位置にいる松尾山城に総大将格の武将を入れることを考えていました。当初毛利輝元を考えていましたが、輝元は動かず結局小早川秀秋が入ります。そして三成は笹尾山に本陣を置きました。
そして家康率いる東軍はその布陣にそのまま突っ込むような状況で布陣。家康が最後方で東軍の諸将が布陣しました。また家康の後ろ側でも東西の軍勢が相対。中山道沿いに東軍、その先の南宮山には毛利秀元をはじめとする西軍部隊が布陣しています。
なんで僅か半日で、決着がついたの?
関ヶ原の戦いの所要時間は非常に短く、わずかか6時間の戦いでした。応仁の乱の11年は極端としても他の戦国の戦と比べても短い方に入ります。(桶狭間の戦いの2・3時間というもっと短い事例はあります)戦国最後の決着をつけるこの戦いは一発勝負。
もちろん前哨戦などいくつも小さな戦いはありますが、それだけ短く決着がついたのには理由がありました。それは家康が周到な準備をしていたからです。家康はこの戦いが起こることを前提として諸大名に数多くの書状を送っています。
その結果、小早川秀秋など西軍についていながら途中で東軍に裏切らせる武将などを結果的に潜ませたからだと言われています。多くの西軍大名が戦わずに様子を見ていたことからも、家康の作戦が戦う前から機能していたといえるでしょう。
関ケ原の戦いの3大決戦とは?
関ヶ原の戦いは、本戦のほかにも戦の雌雄を影響する大きな戦いが2つありました。そのひとつめは伏見城の戦いで、本戦が始まる2か月前に起こっています。伏見城を守るのは鳥居元忠で、このとき家康と別れの盃を酌み交わし玉砕を覚悟します。
大坂にいる奉行たちは、家康に対する13条の弾劾状を7月17日に発布。翌日から伏見への攻撃が始まります。城を守る東軍が1.800名。これに対して西軍が40,000名もの軍で襲い掛かかります。20倍以上もの軍勢相手になすすべもなく城に立て篭もります。
三成の降伏の誘いも断り、玉砕覚悟で抵抗したため伏見城は容易に落城せず、10日以上持ちこたえたうえで8月1日に落城。城内にいた兵は元忠をはじめ全滅します。この戦いの結果、西軍の動きは予定よりも大幅に遅れ、対家康への作戦上の展開に影響を与えました。
もうひとつは、信州上田城の戦い。この城は真田氏が支配していました。関ヶ原の合戦が始まる際、真田家を守るために一族で東軍と西軍に分かれます。西軍に付いた真田正幸と次男・信繁(幸村)は、家康に反旗を示して城に立て篭もります。
そのまま東軍に付いた長男・信幸は徳川秀忠と共に上田城を攻撃します。秀忠軍38,000に対して真田軍は最大3,000程度。12倍以上の軍勢の差がありました。少数だった真田軍は城を守りながら奇策を用いて秀忠軍を翻弄。結局3日間一進一退の戦いが行われました。
8日になると、家康からの命令で上田城を落とすことなく秀忠軍は西に向かって進軍します。被害状況は秀忠軍の方が大きいだけでなく、この3日間の戦いで、秀忠軍は関ヶ原の戦いに間に合いませんでした。これは「世紀の大遅参」と呼ばれています。
関ケ原の戦いが天下分け目と呼ばれる理由
実際に関ヶ原の合戦が行われた場所を確認しましょう。これは岐阜県の大垣市と滋賀県の米原市の間、岐阜県関ヶ原町にあります。ここは北に息吹山、南に鈴鹿・養老山地が迫る要衝で、古くから「不破の道」と呼ばれていました。
現在でもここを通る新幹線が冬になると豪雪によってダイヤが麻痺することがある場所としても有名。そんな要衝で東西両軍が激突しました。近くには現在関ヶ原駅が設けられ、古戦場跡を見学することができます。
実は古代にもうひとつの天下分け目の戦い「壬申の乱」がここで行われています。そしてこの地で激突した結果、天武天皇側の勝利につながりました。
さらにこの地には、奈良時代末まで不破の関がありました。当時の名残としてこの関より東が関東、西が関西という呼び方が現代まであります。そのような理由から、関ヶ原は東西を分けた天下分け目の戦いと言われるようになります。
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